知ったかぶり が良くないのは知っているが、

果たしてしていないと言えるのだろうか

この世の中にはそれこそ膨大な情報と知識がある。日常的に必要な情報や知識などたかがしれていて、「慣れ」という生物独自の効率化によって頭のなかにクルミしか入っていなくてもなんとかなったりしている。しかしながら現代を生きる人々は「知らない」ということに、もはやなんの感慨も湧いてこないように思えて仕方がないのだ。 雑学番組が隆盛を極めた時代は最近のようで実はとうの昔ということとなっている。

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最近は レモンサワー ばかり飲んでいる

人の心のうつろいやすいことよ。

お酒の話題ばかりで恐縮だが、僕の中では一大変化となっている。家でも外でもビール一択の人生だったが、ここにきて家ではレモンサワー、外では2、3杯ビールのあとレモンサワーとなっている。うーんレモンサワー。うまい。 家では8等分にカットしたレモンをあらかじめ大量に凍らせておいて、グラスに氷のかわりにたっぷりと入れる。そこにキンミヤと炭酸水。

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謙虚な姿勢 は他人の評価云々というより

自分自身の成長に直結する。

この世の中にはそれこそ多種多様な称号が存在する。あの人は優しいねえでも怒りっぽいねえでもいい。とにかく、いちいちじっくり話し合わなくてもその人間を簡単に批評するにはもってこいの慣習と言える。 物をよく知らないのは恥ずかしいことでもなんでもないが、知らない本人が「知らなくて恥ずかしいな」と思って初めて齟齬のないコミュニケーションは成立する。

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時間を追い越しながら生きると言うこと

当ブログで何度か触れているが

やはり我々の資源、あるいは資産の中で最も重要で高価なものは時間だ。時間があればなんでもできる。そして時間がなければ何もできない。時間というのは人間が勝手に決めた物差しだが、多種多様な物理法則を考える上でこの「時間」という物差し抜きには人間風情の頭では処理しきれないのだ。 そしてひとつの結論として人間というのはこの稀有な資産を「無駄にする」ことに非常に長けているということに気づいている人は少ない。

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一度にたくさんのこと はできないが

僕的には二兎を追うて二兎を得る

なんとか両方手に入れるように動いてきた。が、僕のやってきたそれと、それはニュアンス的にちょっとだけ違うようだ。うちの犬ころはたまに遊んでやると嬉しいのか、「撫でて欲しい、走り回りたい、ボールを噛みたい」なんかをいっぺんにやろうとするものだから、当然パニックになる。頭がいいのか悪いのか文字通りの「同時進行」は本当の意味で同時だと達成困難なのだと改めさせられた。

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尊重すべきことに 騙されてはいけないと思う

数の力に無意識に屈服しているかも

昨今1個人の意見、主義主張があたかも全体の正義のように扱われがちのように感じる場面に多く遭遇する。(直接的にも間接的にも) 世界は広く広大で人間はカオスが苦手だ。あまりにも膨大なファジーを処理することを迫られれば、文字通り当たり障りのない答えに飛びつこうとする。根本的に弱者を擁護したいと思う本能を持ち合わせる人間の限界は非常に近いところまで迫っている。

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初期のお客様の変遷と感謝

僕は今まで数多くの「商売」を始めてきた。その中で「失敗だった」と言うことができるのはひとつだけだ。それは「自分のために」作ったバーだ。調子に乗った芸能人やどっかのブルジョアがよくやるアレだ。反省は色濃く僕の脳裏に焼きつき、心配性に拍車がかかっていい感じではあるが、「心配性で大胆な僕」はその失敗を十分に糧にできたような気がする。相反する二面性を生まれながらに宿す人間だが、そのギャップが大きければ大きいほど魅力は増すように感じる。

オープン日初日の緊張と最初のお客様

開店告知でご来店のお客様というのは経営が軌道に乗った後のそれとは比べものにならないほど少ない。誰でも心理的に「評判が出揃ってからでいいや」と意識的にも無意識的にも考えるものだ。つまり最初から来てくれる人はどちらかというとイノベーター気質を持っている人。もっとわかりやすく言えば「最高のお客様としての気質を持っている」ということが僕の経験上断言できる。

数多の商売が乱立する中で経営を軌道に乗せ発展していくためには「太く、情熱的なお客様を多く獲得することが大切」だ。もちろんステップ的に最大の数のお客様は「評判に移ろいやすいお客様」という構図は基本的には避けられないが、一番最初の頃にどれだけこのイノベーター気質のお客様を多く獲得できるかというところに実は真髄が隠されているのだと信じて疑わない自分がいる。

そして僕は最初のお客様を他のお客様にもわかるように特別扱いしてきた。言葉でも態度でも表現し、愛妻家が妻に毎日するように愛情を表現するという経営方針をとってきた。そしてそれは常に功を奏してした。

「一番最初の頃のお客様は大切」なのだ。

今まで成功も失敗も含め店なりビジネスを辞めるその日、僕のところには「最初期のお客様が必ず居てくれた」これがどれだけ凄いことなのかは簡単に伝わるはずだ。そしてお祝いだったり、労いを精一杯僕にくれた。

これこそが商売の鉄則なのだと僕は心に刻んでこれからもあらゆるビジネスを行っていく。

「移ろいやすいお客様が最大数」と言うのも争うことのできない真実ではあるが、その数だけは経営者の行動でなかなか制御できない部分だ。ではどうやってその移ろいやすい人々を集客するのか。それは間違いなく最初期のお客様の日常だ。それらのお客様の頭には色濃く僕の商売のことがインプットされている。日常的にその話を周りにフワッとしてくれる。それが「口コミ」だ。無意識に「自分で選択することを諦めている」移ろいやすい人々は無意識に「自分でものを決めようとしない」が、身近な人の言葉は「鵜呑みにする」のだ。

この不思議な化学反応が経営を最序盤で決定づける出来事となっていく。

僕は今取り組んでいることがあるが、最序盤の今、今までと同じように、あるいはそれ以上に「一番最初の頃のお客様」を獲得できていると思っている。

それは心地の良い過去の記憶との整合性がとれ、僕の心をこの上ないほどにリラックスさせてくれる。そして文字どおりの活力を僕に与えてくれて、より良いクリエイティビティをもたらしてくれるのだ。


アドバイス を受け入れられる時

僕は生まれてこれまで、他人様からの「アドバイス」を素直に受け入れたことがなかった。基本的には全てに反抗していくスタイルだった。単純に負けず嫌いというわけでは無く、「知った風な口」をきく人は実に多く、その言葉に重みも責任も感じないというのが正確な表現のはずだ。僕が丸くなったわけでも衰えたわけでもない。狼のように今でも全てに反抗する準備はできている。

的確に見抜かれているという現実

年齢も性別も関係ない。圧倒的な実力差を僕は認めていたのだろう。その実力差を言葉で表現することも僕はできないレベルだ。僕のスランプを的確に時系列を追って把握し、必要な言葉を最小限度で使い、アドバイスされた。

そのほとんどは僕は「できていたこと」だった。無論、頭で理解もしているはずだった。新しいステップに登り、さらに上を目指そうとするのに、気持ちばかりが先行していたことをまんまと「気付かされた」 もしかすると僕が感じるような深い意味は含まれないアドバイスだったのかもしれない。でも「結果」としてそれは今の僕にとって「最高のアドバイス」となったのだ。

別にどんな人間だって構わない。クズでもバカでもデブでもハゲでもなんでもいい。ある一点において人は人を救うことができるのだと。痛感させられた。

何を隠そう、僕は今までの人生は「アドバイザー」として生きてきた。これからもそれは変わらないだろう。

だけど、僕は今日、アドバイスを受ける人の気持ちがようやくわかった。これからの自分のアドバイスがどれくらいの人たちの役に立つかわわからない。だけど、「突き刺さる人」は居て、今この瞬間もそれを無意識に望んでいるのだと。

圧倒的な高みから、嫌味なく、心の奥底にそっと届くアドバイス。

それは何ものにも変えられない「救い」そのものだった。

人が「認められる」ということ

こんなにも嬉しいことはない。他人から「認められる」ということは「成功の縮図」そのもののように僕は思う。「自分で」認められるために邪な考えを持って動いてもそれは得られない。自分が信じた道をただひたすらに信じ続けること。まずはそこから始まる。そしてその先にそれが「認められるかどうか」なのだ。いわば「通信簿」といったところか。

うまく言えないかもしれないけど、

最近僕の友人が「認められた」のだ。僕は表立っておめでとうを伝えていないけど、(こっぱずかしい)自分のことのように嬉しい、暖かい気持ちになった。

その友人は自分の信じた道をただひたすらに信じ続けた。それは途方も無い時間と労力を費やし、十分すでに多くの人から信頼を得ていた。だけど、僕たちの業界は「天井」が無い。生涯賃金は決まっていない。まさに青天井。そのステップを「他人様が認めてくださる」ことでひとつづつ登っていくのだ。

ヘトヘトで足元はおぼつかない。頭は常に微熱気味、引き返そうと思っても階段は無く、奈落の底まで続いているようだ。そしてやっとのおもいで「ひとつ」登っても、次のステップは姿も形も違う「登り方のわからないステップ」となっている。(ひどいでしょう?)

誰でも不安や恐怖がある。それをなんとかヘッジするための選択として、企業に雇用されるということを僕は尊く思う。それはそれで素晴らしい人生とも言える。

しかしながら、我々はその選択肢を放棄した側の人間なのだ。だから責任も尋常で無く重く、抱える悩みの質もちょっと種類が違ったりする。(優劣の話では無い)

自分の発言ひとつ、寝坊ひとつ、振る舞いひとつであっさりと「すべて」が瓦解する恐怖に「四六時中」対面すること。が最低限の資質だ。

その上でただひたすらに「自分を信じる」ことが仕事だ。

そしてそれは蕾のままで終わることも、大輪を咲かせることもある。どちらになろうとも、「信じ続ける」ただひたすらに。

彼は今回非常に大きなステップを超えた。仕事の規模はグンと大きくなるだろう。 そしてそれを自分のものにできるだろう。なぜなら彼は自分自身を今までもこれからも「信じている」からだ。それ以上の武器はない。まさに唯一無二そのものだ。

こっそりと「おめでとう」と書いておきます。

いつか我々にも剣を置く日が来るだろう。

でもそれはまだ随分先のことだ。

駆け引き の難しさと勝敗

勝ち負けが存在するあらゆることには「勝因と敗因がある」しかしながらこのふたつは決してオセロのような単純な裏表の関係ではないと僕は考えている。もしも最高の勝者と最高の敗者しかその勝負に関与していないのならオセロでもコインでもいいが、きっちり裏と表となる。でもほとんどの勝負事は「負ける側に明確に負ける理由が存在し、かつそれに気づいていない場合。そして気づいているが制御できない場合」があるように思う。

極論を言ってしまえば「勝手に敗者になる」

勝者はいつも賞賛を浴び、その栄誉を讃えられる。敗者も勝者に対して最大限のリスペクトを表明するべきだし、勝者も敗者をねぎらう方が格好いい。

それはさておき、対戦相手のある勝負事の場合、僕は勝者は「勝手に生成されるもの」と考えている。もちろんそんなに簡単なことではないが、ある一つのルールの中で勝負するときに、その勝負の勘所や所作を完璧にマスターし応用が効く人と、その完成度が80%くらいなのに完成したと思い込んでいる人が戦うと言わずもがな「マスター側」が勝利するだろう。

僕がいつも思う。マスターが勝つべくして勝つのではなく「敗者が当然に負けるから勝者が生まれるのだ」と。 (ナンジャそらと言わないで)

その理論で当てはめて考えれば「勝因」なんていうものは非常におぼろげで不確定なものだ。

しかし「敗因」はどうだ。

毎回非常に明確に足りないものを示してくれるのではないかと思う。

「相手が悪かった」とよく耳にするが、そうではない。「相手より足りない自分が悪い。そして何が足りないのか知ることができるでしょう」ということなのだ。

敗因の的確な分析と考察は、次にそれが原因で「敗者となる」ことを少なく、あるいは無くしていける。

いつかはマスターになる道理だ。階段は飛ばしてはダメだとつくづく思う僕です。