お寿司のしゃり 残す問題 賛否両論あってはいけない

テーブルにさえ上がっていない。

呆れてものが言えない。と思っています。

ずいぶんと日本も変わってしまいました。美しい思いやりの文化はもはや風前の灯です。 自分の行動で人がどう思うかなんていうのはどうでも良く、そこには敵意さえありません。(せめて敵意があるならば、戦うことができます)

悪気がない。のでしょうけど。それは無関心という最も人間らしくない行為です。

オリンピックがやっていますね。

あれが、見ていて清々しいのはルールという制約のもと全力で勝負して、勝利したものは敗者を慮り、敗者はちゃんと勝者を讃えるからです。

選手みんなが必死に努力して一つの競技で競うわけで、相手が自分と同じ苦しい練習を超えてここにいることをお互い理解できるから、必然とリスペクトが生まれ、見るものにも伝わる当人同士の全力の気持ちのやりとりが観客を魅了するのだと思います。


最終的には自分がかわいい。それはわかる。

ですがお寿司を食べている人が「最終的」局面にいるわけもなく、明らかに配慮が足りていない。

しゃりを残す母は自分が作った料理を子供が残すことを許すのでしょうか。

答えは許さない。

自分が基準であり、自分が残しているから子供が残すことも許そう。なんて思いません。 そういう手合いに限って学校からはモンスターと恐れられ、旦那さんも言われるがままなのでしょう。そして、指摘されると烈火のごとく怒り出します。

まるでおもちゃを買ってもらえないデパートの子供のように。

別にお寿司屋さんでだけ起こっている問題ではなく、ありとあらゆる場所で、こういう類のことは起こっていて、でも、誰もそういう風潮を是正できない。

これは止めることのできない流れなのかもしれないと思うとやるせない気分になります。


今が、瀬戸際。

せめて、他人がどうであろうと、ご自分の家庭内では守って欲しい。

自分の子供はしっかり叱ってほしい。

自分の友人にはしっかりと伝えてほしい。

他人を思いやることのできない人間(思いやれていない)に、人間は育てられない。


議題とは議論するに値するものでなくてはいけない。

貴重な時間を使い、みんな手を止めて、会議室でテーブルを囲む。

それは議論が必要なことだからであり、論者はほぼ対等です。

しゃりを平気で残す人とそうでない人の議論なんてそもそも成立しない。

ちょっと想像してみてください。

お母さんが「夕ご飯できたよー」と呼んでくれて、食卓につきます。次の瞬間あなたはテーブルの上にある食事を腕を使って全て床に落とします。

その時お母さんはどんな顔をするでしょうか。

こういうことは正気ではできないのです。

コンビニの店員さんだろうが、寿司屋の職人さんだろうが、すべからくみんな人間で、心があるのです。

そんなに簡単なことも「理解しようとしない」人と議論する価値など全くない。

ご自分たちのルールがある(ダイエット?)のは結構ですけど、それは独自のものであって、「自分のわがままを他人に押し付ける」ことであり、本来そんなことはお金を払うのであっても他人様相手にやっていいものではありません。

 

「ありがとう」 という言葉が僕は世界で最も素敵で尊い言葉だと思っています。


※この記事は2018年2月21日に投稿したものとなります。おかげさまで読者様が増えて参りましたので、今後定期的に過去記事をご紹介させて頂きます。

TALK BACK  読者様の暇つぶしになれば幸いです。

 

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