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僕が文字で発信することにこだわる理由

絶対に生きている間に扱い切ることができない

世界中にある言語、そして、それを表現する文字。

僕は日本に生まれ、日本語を話す。そして日本語の文字を扱う。 ただ、専門的に勉強したわけではない僕には到底扱い切れるものではなく、その奥深い魅力に最初に気づいたのは活字の本を読むようになってからでした。

そこで勉強不足なのか、なんなのか原因はわかりませんでしたけど、好みの作家さんが数人出来て、その人たちが綴る文章は「明らかに違うという共通点」を見つけました。

明らかに違うという共通点

例えば「今日は昨日までの悪天候が嘘のように晴れ渡り、清々しい気分でいつもの電車に乗った」

っていうなんでもない文章を、僕が好きなその人たちに書いてもらったとしたら、一つ一つに作者の名前がなくても僕は誰が書いたのか言い当てる自信があります。

なんというか陳腐な言葉で申し訳ないですが、同じ日本語を用いた文章に明らかに個性が出ているということです。

すごく不思議で、(僕が勉強不足なだけですけど)自分の体調や気分によって避けたい作家さんや、積極的に読みたくなるケースがあったりして、物語の内容ももちろん大切ですけど、文章から伝わってくる意味以外のなにかは明らかにみなさん違います。

ものすごく澄んだミネラルウォーター

淹れたてのコーヒー

凍ったジョッキのビール

どれもすぐに想像ができますよね。そして今どれを飲みたいか。どれが欲しいか。


写真を勉強したことがあります

著名な先生に教えていただいたのですが、のちに先生と一緒に僕のアルバムを見返した時、時系列的にカメラの機能や構図、ライティングのいろはを学ぶ前に撮った写真の方が圧倒的に良いと言われたことがあります。

本当に写真を自分のプロスキルにするのであれば絶対に知識は必要で、それによるスランプも必要なプロセスです。

ですが僕の目指すところではなく、あくまで趣味の領域であったがため、僕は知識を得た後、自分の思うような写真が撮れず、挫折しました。

「生兵法は怪我の元」とはよく言ったものです。

本気で取り組むのなら酸いも甘いも噛み分ける必要があり、それはとても苦しい作業となります。そしてその先にしか、本物はありません。


僕は文字のいろはを勉強していません。

今から本気で取り組むにはあまりにも遅く、深い世界です。

でもそれで良いのです。

今の僕の文章は「カメラのイロハを学ぶ前の写真」そのものな筈です。

専門家から言わせれば文法間違いだらけの文章かもしれませんが、それでも構いません。

自分の頭の中に浮かんできたことを自分の中でしっかりと「文字に起こす」ことにこだわりたい。

決して他を非難するわけではありません。誰かの受け売りや引用も良いでしょうし、表現の自由は常に担保されなければいけない権利です。

文字や写真、絵画や作品、人間が発信・創造するものの目的を問われれば、それはほとんどの場合、自分以外の人間に対するメッセージです。

「自分の気持ちを表現する手法の一つ」なのです。

 

日曜日のお休み以外毎日更新すると意気込んで始めたブログも最近では反響が出るようになってきました。毎日自分のデスクに座り、真っ白な画面に向かい、台本のない文章をポツポツと書きはじめる。

それは時に広い砂浜に落ちている貝殻を使って家を建てるような感覚にさえなります。

頭の中に何もない状態でデスクに向かう。 そして自分の内面と向き合って言葉を見つける。最初のひとつに手が掛かれば、あとは大丈夫。言葉が言葉を連れてきてくれます。

 

これからも自分の頭の中と向き合いながら、1日1時間頭をいじめる作業をライフワークとし、文字にこだわって発信し続けていきたいと思っています。

おヒマな時で構いません

思い出した時で構いません

なかなか寝付けない時で構いません

僕の ”くちごたえ” にお付き合い頂ければ幸いです。

 

 

 

ぜひこちらもお読みください 残業について思うこと ルールと実情の混濁


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