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梅雨があけたのか なんだか早くないか 苦しみの話

どんなに辛くても終わりはくるのだ

もちろん梅雨が明けるのなんて決まり切ったことだ。必ず終わる。 梅雨が明ければ抜けるような青空とうだるような暑さ、そしてこの上ないビール。

苦行の後のご褒美はいつでも最高の気分をもたらしてくれる。たとえそれが決まり切ったことでも、苦しいものは苦しいし、楽しいものは楽しい。

しかし視点を少しだけ変えてみれば、苦行があるからこその楽しさなのではないか、などどマゾヒズムにも似た感情が見え隠れする。 皆さんも少なからず僕と同じような感覚に見舞われたことはないだろうか。

出口があっても苦しいのだから

現在出口のないような錯覚に陥り、あるいは実感しながら生きている場合、絶望は常に傍でニヤついているはずだ。憎たらしい風情でそこにいる絶望はありとあらゆる悪感情を連れてくる。 選択は悉く裏目となり自分を信じ続けることもこの上ない難儀となるだろう。 しかしそれであっても無慈悲なまでに時間は正確に進んで行く。時間経過が文字通り絶望の深度を深めて行く。ジリジリ、ジリジリ

それでも人間は生きることを本能的にやめられない。そういう風に設計されている。生命を維持し繁殖するためのプログラムはときに自分の意思など超越し、我々を矯正・強制し続ける。


僕は苦しくて、難しくて、辛くて、不快な事柄に恋をしているのかも知れない。その苦しみの先の快楽の味を知っているから。 それと同時にただ与えられる快楽になんの味もないことを知っているから。

簡単に言えば人間は苦行→成功のパターンでしか本質的満足を感じ取れないようにできているのではないか。とさえ思う。

悩み抜いて答えに行き着いた事柄を絶対に忘れないように。

人から簡単に与えられた答えをすぐに忘れてしまうように。

あらゆる文献は成功のために「苦行、努力」を推奨するが、その考え方に一抹の不安を覚える。 果たして本当にそうなのだろうか。

僕には苦行と成功は天秤の両端にしか思えない。

言葉は変だが「良い苦行」と「成功」はもしかすると「等価」なのではないかと。

どちらか一つだけ与えられてもなんの感動も得られないようにできている。しかし世界は「成功」を目指すためのスキルを1方向からプレゼンスし続ける。それに大きな疑問を感じるのだ。


夏が気持ち良いのはその前にうっとおしい梅雨があるからなのだ。

とある先輩は梅雨の楽しみ方を教えてくれた。 ここでは控えるがその言葉はとても僕を震わせたものだ。漠然と自分の中にあった真実がディティールを帯びてきた。

苦行を楽しむというのは今までになかった気持ちだからだ。今までは苦行を苦行として受け止め、耐えてきた。そして成功の蜜の味に酔いしれ、喜んだ。

成功が甘いのは苦行が苦いからだと刷り込まれていた自分はもういない。

物事の本質とはいつだってシンプルだ。

一日中1本の木を眺めていればいくつかの真実にたどり着けるように、世界にあるもの全て答えに満ち溢れている。人間の目はその全てを見て理解することができるのだ。

表裏一体。表にポジティブ、裏にネガティブを想起するようになぜか刷り込まれているが、それはなぜだ。 それはおそらく間違いなのだ。

表がある以上裏があるし、裏は表がなければ存在し得ない。

表も裏も天秤の両端であり、そこに勝手に属性を持たせ勝手に苦しむのは人間なのだ。

苦しむことでさえも楽しむことができるようになる。

その辺を目指していこうと思った。

 

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