音を立てて崩れ始めた 昭和の産物

埼玉で橋桁が落ちた

年代ものの橋は落ちるべくして落ちたのではないのか。いやが応にもそんな風に邪推してしまう。 小学校の外壁が崩れ児童が下敷きになってしまうなど、痛ましい事故が散見される。危険を「承知」しておきながら「対処」しないのは色々な理由があるのはわかるが、被害に遭われた方は到底「仕方ない」なんて思えるはずがないのである。

耐用年数はとうに過ぎ

形あるものは全て「壊れる」これは物理的にどうしようもないことだ。だから企業などではあらゆる品物に耐用年数を設け、年毎に経費を計上できるようになっている。真っ当に経営が進んでいれば耐用年数を過ぎた品物を買い換えることは容易ということだ。 いっとき前までパソコン(電子計算機)の耐用年数はバカみたいに長かった。しかしそれも時代の流れに合わせ、十分真っ当な耐用年数となっている。

これは容易に買い替えを促すためだけではなく「ものの寿命」を表す良い指標となっている。

そして、建物やインフラ設備にももちろん「耐用年数」が存在する。(ちなみに最近のトイレは大体10年)

マンションは何年、この道路は何年、この「橋」は何年と、事細かに決まっているのだ。 そして「耐用年数がとうに切れている設備」を平気で、下手すれば気付かずに現在進行形で使用している。

しかもそれが壊れれば付近に一定の被害が確定するような「大規模建造物」ほどこの傾向が強い。

もちろんそれは人間の命を簡単に脅かしてしまうほどのものだ。

高度経済成長からこっち、爆発的にインフラの整備は進んだ。バブル期には必要のないほど不動産が生成され、それはもはや手のつけられない遺産として今も寒空の下の墓標のような風体を「保って」いる。

それら製造年月日昭和の品々が、平成も終わるという今、「音を立てて崩れ始めた」ということなのではないだろうか。

僕は建設業には明るくないが、「古くなってしまったものを補修する」ということには「限界」があるように思えてならない。

崩れた豆腐はいくら添え木をしても「崩れ」自体はなおらない。

乱発したせいで持ち主のわからない不動産、権利関係が複雑すぎる風が吹けば倒れそうな廃ビル。 これらはキッチリと物理法則に則り「一斉に寿命を迎える」そのことはこの宇宙の原則そのものと言って良い。

少なくとも、ご自分の生活圏でこのようなものに該当する「危険」を発見しておくことは非常に重要だ。 そして被害範囲を想定し、その圏内には「近づかない」こと。 我々にできるのはせいぜいその程度のことなのだ。

悲惨な事件はこれから多く起こるだろう。

それは起こるべくして起こる。

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