原理原則 に思いをはせる

腹が減るから食事をする。

一つの作用が対となるもう一つの作用を促すため、あまりこの部分に着目して考察する人はいないように思う。ビジネスにおいてはこの部分をいかに「準備」できるかで大きく結果に差が出るが、こういった天秤を具体的に意図をもって考察しないことには再現性のほとんどないなんちゃってビジネスが乱発されることとなる。

奪い合いという前提

一番わかりやすい相場の世界では僕が計上した収益を誰かが損益として計上しているという事実がある。よく「あぶく銭」などと揶揄されるがそれは絶対に存在しないものだ。僕はやらないが、例えばパチンコで「勝った!」と喜ぶ人がいるのは「負けた」人がいるからだ。一つの勝ちを、一人あるいは複数で賄っているのだということを忘れてはいけないし、しっかりと考える必要がある。

これはあからさまな奪い合いだ。誰しも小さい時に椅子取りゲームをやったことがあるだろう。あれはまさに人生の縮図だ。まあ厳密には敗者が「脱落」することは生物学的な死を迎えるまで規模の縮小はあれど無いわけだが、皆さんも血相を変えて見えている椅子に尻を持っていったことと思う。

誰も目の前で苦しんでいる人を見捨てたりはしない、何もできなくても心を痛めるくらいは誰もがする。

では見えなかったらどうだろう。

あなたの預金残高にあるお金はアスパラのように何も無いところにニョキニョキ生えてきたわけでは無い。

誰かがあなたに「支払った」からそこにあるのだ。支払った人の帳簿には経費として確かにマイナスが記されている。 もちろんあなたは貴重な時間と労力を販売したわけだからそれを得るのは当然だが、論点はそこでは無いということ。

例えば僕が企業を買収したとしよう。大幅な経営改革を施すにあたり、従業員の大規模解雇を実施したとする。 だけど僕にはその人たちの顔はわからないのだ。 よく世界の投資家たちはパソコンのワンクリックで地球の裏側にある工場を2つも3つも閉鎖したりしたものだ。しかし、目の前で苦しんでいる人を見捨てられなかったりする。

どこまでいっても人間とはそういう生き物なのだ。

でもそれでも、原理原則を理解するのは必須なのだと僕は思う。

当たり前なんてこの世に一つも存在していない。

その辺を理解して初めて優しさや感謝は意味を持ってくる。