とっくに通常営業ですね

今年はどんな年になるだろう

20歳で起業してから僕はまともなお休みを1度もとっていなかった。別にそれで不満があるわけでもなく、なんとなくそのように過ごしてきた。しかし去年の頭にフリーランスのトレーダーになってから少しずつ考え方が変わってきている。一般社会と「足並み」を「ある程度」合わせる事でこの世界はとても「過ごしやすく」なるのだと。

がっつりお休みをいただきました。

ウェブでの活動はある程度していましたが、相場は完全にノーポジション、触りたい局面も多々ありましたけどあえてアイフォンを持たずに出かけたこともありました。そうやって「強制と矯正」をしないと頭の中が「仕事モード」に無理やり切り替わってしまう性分との格闘にほとんどの時間を費やしてしまいましたけど、人生初の長期休暇は振り返れば非常に有意義なものとなりました。

「休む」というのはフリーランスであればあるほど「難しい」ことです。僕のように長年自分で仕事をしているともはや「職業病」と言ってもいい。寝ても覚めても隣のクラスの〇〇ちゃんのことが頭から離れない思春期真っ只中の中学生のように「没頭脳」が活動しっぱなしなのですから。 それをWindowsをシャットダウンするときのあのサウンドのように「オフ」にするのはそれはそれは大変なのです。「〇〇というアプリがシャットダウンを妨げています」コーションサインが乱発します。

それでも「強制的にシャットダウン」をクリックしてみました。

結果としては「なんてことなかった」「休みって素晴らしい」となりました。そして「体重貯金」はまんまと吐き出し、今日からまた辛いダイエットの日々が始まります。 

今年は「夏休み」と「冬休み」を取ることを決め、メリハリのある1年にしようと考えています。

ブログも今日から開始しますが、ゆるーくトークバックするくらいで、自分を追い詰める原因にならないバランスで保とうと思っています。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

商売の始め方 必要なのは情熱

学歴も経験も必要ない

以前の記事でも書いたが、僕の一番最初のビジネスは安く仕入れたジュースを自販機の金額よりの安くお友達に譲ることだった。 別になんてことはない。商売の定義として、安く仕入れ、それに「利益」を乗せて「販売」すればそれで良い。昔と今を比べて「商売の始めやすさ」は桁違いにやさしくなっていると言える。経営学なんて学ばなくてもいい。自分の頭と情熱だけで十分スタート可能だ。

現在「やりたいことが見つからない」人へ

僕が個人的によく受けるクエスチョンの中で圧倒的に多いのは、「やりたいことが見つからない」「やりたいことがない」というものだ。彼らには僕が「常にやりたいことをやっている人」という認識なのだろうなと思うし、自分自身そうやって今まで生きてきた。僕は何もないところから何かを生み出すことが得意だし、自信がある。

そういう質問をし、答えを求める人に僕はほぼ100%「商売を始めたらどうか」と答える。 この世の中にはなぜか「就職して働くこと」以外に選択肢を頑なに持たない人が非常に多い。もちろんその気持ちもわかる。そういう風潮の中にあって、「やりたいことがない」ことに「悩める」というのはもはや一種の才能であると僕は考えている。

就職ありきの考え方の人は口を揃えて「安定」「不安」という。 しかしながら僕から言わせてもらえれば安定も不安も「成功の後に心配することなのではないか」と思う。何者にもなっていないうちから「自分の将来を盲目的に限定してしまう」風潮にコーションサインを発信したい。

でも無理にとは言わない。従順で慎重な社員とはいつの時代も必要な人手だし、そういう生き方も当然リスペクトされるべきものだ。

だから上記の「才能」を持っている人にはぜひとも「起業」してもらいたいのだ。

起業と聞くと堅苦しく感じられるだろうし、最初から会社にする必要なんて全くない。 身の回りを見渡して、不要なものを探してみてください。そしてそれを売却してみましょう。大切なのは「少しだけ考えて動く」こと。

その品物はいくらぐらいで取引されているものなのか「リサーチ」してみるのです。そして目標販売金額を設定します。そのあとはメルカリでもヤフオクでもいい。実際に販売してみましょう。 写真を上手に撮影し、タイトルや商品説明も自分が買う立場になってじっくりと練って書く。「出品」ボタンを押すときに緊張するぐらいがちょうど良い。

売れても売れなくてもやることがある。売れない場合は見せ方を工夫してみる。「値下げ」は最終手段。基本的にはNG行為だ。「自分の感性で決定した価格は守り抜くべき」だからだ。SNSで「宣伝」するのもよいだろう。

そして販売が完了したら「丁寧に梱包し、できれば感謝の気持ちをメッセージカードに一言記して発送」相手からの評価をもって初めての取引は完了する。

全てが終了したら「帳面」をつけてみよう。

あなたが初めて叩き出した「売上」をだ。

別に革新的なアイディアなんか持っていなくたっていい。

商売とはどこまでいってもこれ以上でも以下でもないのだ。

その初心と気概と情熱が薄れることがなければ必ず成功が待っています。格好つけてはダメ。「評価は全て後からついてきます」

商売。始めてみませんか?

ビジネスの拠点 についての考察

絶対的に解消できないのは出社と距離

「お勤めする」ということは基本的には会社に出向いてそこで仕事をする。ということだ。一部例外はあるにしてもほとんどこれに当てはまるだろう。何を当たり前のことを言っているのだ。という声が聞こえてくるような気がするが、果たしてこれからの将来、オフィスというものにどれほどの価値を担保し続けられるのかという疑問をどうしても解消できずにいる。

なぜ、オフィスが必要なのか。

この問いに正確に答えを出せる人はいないだろう。「体裁」という言葉を使用不可にしてしまえばなおさら難易度が上がるし、これはもう暗黙の不可分と言って良い。

「信用」という考えももちろんあるだろう。都内の一等地にオフィスを構えているというだけで、ほとんどの一次審査はパスできるのだから。

しかしそれらの考えはこの先どんどん廃れていくと僕は考えている。するとどんなことが起こるのか。それは地価の暴落(現在の価格から見て。適正価格に落ち着くと言い換えてもいい)だ。現在の東京の地価はべらぼうに高い。「プレミア価値」と言ってもいい。  ではなぜ東京の地価が高いのか。それは東京で働く人が多いからだ。なぜ東京で働く人が多いかといえば、東京に一流企業が多くオフィスを構えているからだ。通勤時間の短縮におそらく一番お金がかかっていると言い換えてもいい。その生活圏内で買い物や行楽が滞りなく行われ、利便性もそのまま地価に上乗せされている格好だ。

では「通勤」しなくても良いとなった時に、果たしてそのクソ高いマンションに住み続ける人はどの程度いるのだろうか。小学生レベルの算数ができる人ならばまず間違いなく引っ越すだろう。

皆さんも少しだけ考えてみてほしい。ご自分がオフィスで行なっている仕事は「オフィスにいなければできないのか?」ということを。

もちろん明日からオフィス無しでというのは相当に乱暴だし、取り決めやシステムづくりなどいろいろな事を経て行かなくてはいけないが、もはやオフィスというのは全時代的な代物であるのは明らかなのではないかと考えている。

月間に数千万からの賃料を払うメリットが逆転する日は近い。

いかがだろうか。大いなる無駄からの脱却はいつの時代も恐怖と隣り合わせだ。しかし恐怖に打ち勝った順番で勝者が生成され、次の時代を率いることとなる。生産、物流、ネット、これらインフラの成熟度を鑑みるに、十分現実味を帯びてきたと考えるのは僕だけではないはずだ。

心のスピード を落としてみよう

深夜食堂というドラマ

別にレビューサイトってわけじゃないから誰が主演でどうでなんて野暮な文章は書かない。ずいぶん前に友人から勧められて見て以来、年に何回かはシリーズを見返している。僕は本でもドラマでも映画でも気にいると「定期的に見返す」性分のようだ。皆さんもお気に入りの作品があるのではないだろうか。

心のスピードにゆっくりとかかるブレーキ

このドラマを見ると僕は必ずと言っていいほど心がゆっくりになる。ゆっくりになった後すぐに人と会ったり、仕事をしたりすると全くと言っていいほど調子が出ない。正確には調子が出るまで時間を要する。

体感、だけでなく実感もある。心がしんと落ち着き、肺の中の息もつかえることなく空っぽになる。ニュートラルそのものなのだ。

その状態はこの上なくリラックスしていてストレスもない状態だと思う。それと同時に普段のスピードがどれだけ自分に「負荷」をかけているかということも考えさせられた。

ゆっくりとお酒でも飲みながらこの余韻に浸るのはこの時期にうってつけなのではと再確認した次第だ。

国民全員忙しい現代日本においてはとにかくスピードありきとなっている。人間は慣れてしまう動物なので、いくら負荷がかかってもそのスピードに慣れてしまう。そしてニュートラルの感覚も忘れてしまう。 どんな方法でもいい、自分なりの方法で「心のスピード」を一旦全部落としてみることをお勧めしたい。

スピードとは面白いもので現実に「上がれば上がるほど視野が狭くなる」という特徴がある。スピードを一旦ゼロにすることで今まで気づかなかったこと、「見えていなかったもの」に気づくことができるだろう。

そしてその見えていなかったものは、あなたが気づいていなかっただけで、昔から「そこにあった」ものである場合が多い。

落としたスピードとともに「暖かさ」を感じることができたらもう大丈夫。

次にまたスピードを落とす時までアクセルは開けっ放しでいいだろう。

今までよりも格段にハンドルのキレは良くなっているはずだ。そこにしかないものを確認するためにはそこに行くだけでいい。

スピード落として見ませんか?

意識の低下 が招くもの、それはとても深刻だ

あらゆるリテラシーが臆面もなく低下している。

僕は1日の中の数時間、世界中のニュースに目を通す。それは随分前からの習慣で、ビジネスとして、そして大切な趣味のひとつとしてルーティン化している。新聞を3紙購読していた時もあった。それを読み込まないと1日が始まった気がしなかった。僕の朝食は「ニュース」だった。もちろん堅苦しいものから、エンタメニュース的なものまでひととおり読むわけだ。

昨日のそれは結構衝撃を受けた。

それは、とあるエンタメニュースで家電量販店のスタッフへのインタビュー記事だった。

電気屋で扱っているものの中には白物家電だけでなく、割と専門的知識の必要な「機械」が取り揃えてあり、その機械が必要な人は自分で努力してその機械を理解する必要にせまられる。それ自体はなんてことのない当たり前だし、その努力は人間が一番得意な方の努力でさえある。

それが話題ではなくそのスタッフは「お客の理解度の低さ」を嘆いていたのだ。理解度は知識深度と言い換えて扱うのが一般的だがここで扱われたのはそんなものではなかった。「人間として大いに欠陥があるのだ」と感じた。

ある客が光回線のことで店舗を訪れた。その客の家には3回線も光回線が引いてあるのだそうだ。なんでも旦那はS社の携帯を使っているのでS光。息子はDの携帯だからD光、娘はAの携帯だからA光。さらにパスワードを設定していないものだからその家から発せられるwi-fi電波を近所の家庭が使用しているのだと。無料で使えるwi-fiがあるのだから隣の家の奥さんは自宅の回線を「解約」したのだと。そして3回線光の家の奥さんに「あなたの家が解約するとうちが困るからしないでね」と言ったそうな。

別の客は近所の大型ショッピングセンターから飛んでくるwi-fiの電波がつかみづらくなったと苦情を言いに関係のないその量販店を訪れ、そのスタッフに詰め寄ったと言う。困り果て、その客に量販店のフリーwi-fiを教え、落ち着いてもらって帰ってもらったら、すぐに戻ってきて「店の外に出たら繋がらないじゃないか!」とものすごい剣幕で怒鳴り散らしたとのこと。

もうね、カオスにもほどがある。

納豆と豆腐の区別もつかなくなっていると言うことだ。wi-fiを「無料だ」と捉えていることだけでも十分アレだけど、存分に「それどころじゃない感」が半端ない。

一つの家屋に3回線も「工事してしまう」業者も業者だけど、本当にこんな人たちで埋め尽くされているのかと思うと、まともに外も歩けない。うっかり肩でもぶつかってしまおうものなら何を言い出されるかわかったもんじゃない。

僕のこの記事だって、「そうだな、確かにそういう人が多いよな。それはやばいな」と思う人なんてほとんどいないんじゃないか。なんて思ってしまう。

腐ったみかんはもう取り除けないぐらいになってしまったのだろうか。

音を立てて崩れ始めた 昭和の産物

埼玉で橋桁が落ちた

年代ものの橋は落ちるべくして落ちたのではないのか。いやが応にもそんな風に邪推してしまう。 小学校の外壁が崩れ児童が下敷きになってしまうなど、痛ましい事故が散見される。危険を「承知」しておきながら「対処」しないのは色々な理由があるのはわかるが、被害に遭われた方は到底「仕方ない」なんて思えるはずがないのである。

耐用年数はとうに過ぎ

形あるものは全て「壊れる」これは物理的にどうしようもないことだ。だから企業などではあらゆる品物に耐用年数を設け、年毎に経費を計上できるようになっている。真っ当に経営が進んでいれば耐用年数を過ぎた品物を買い換えることは容易ということだ。 いっとき前までパソコン(電子計算機)の耐用年数はバカみたいに長かった。しかしそれも時代の流れに合わせ、十分真っ当な耐用年数となっている。

これは容易に買い替えを促すためだけではなく「ものの寿命」を表す良い指標となっている。

そして、建物やインフラ設備にももちろん「耐用年数」が存在する。(ちなみに最近のトイレは大体10年)

マンションは何年、この道路は何年、この「橋」は何年と、事細かに決まっているのだ。 そして「耐用年数がとうに切れている設備」を平気で、下手すれば気付かずに現在進行形で使用している。

しかもそれが壊れれば付近に一定の被害が確定するような「大規模建造物」ほどこの傾向が強い。

もちろんそれは人間の命を簡単に脅かしてしまうほどのものだ。

高度経済成長からこっち、爆発的にインフラの整備は進んだ。バブル期には必要のないほど不動産が生成され、それはもはや手のつけられない遺産として今も寒空の下の墓標のような風体を「保って」いる。

それら製造年月日昭和の品々が、平成も終わるという今、「音を立てて崩れ始めた」ということなのではないだろうか。

僕は建設業には明るくないが、「古くなってしまったものを補修する」ということには「限界」があるように思えてならない。

崩れた豆腐はいくら添え木をしても「崩れ」自体はなおらない。

乱発したせいで持ち主のわからない不動産、権利関係が複雑すぎる風が吹けば倒れそうな廃ビル。 これらはキッチリと物理法則に則り「一斉に寿命を迎える」そのことはこの宇宙の原則そのものと言って良い。

少なくとも、ご自分の生活圏でこのようなものに該当する「危険」を発見しておくことは非常に重要だ。 そして被害範囲を想定し、その圏内には「近づかない」こと。 我々にできるのはせいぜいその程度のことなのだ。

悲惨な事件はこれから多く起こるだろう。

それは起こるべくして起こる。

信用 というのは個人や企業にとって財産である。

こればかりは取り繕えない

いくら表面を美しく飾り立てても「時間と信用」というものを瞬間的に作り出すことはできない。ブロックチェーンの技術はこの辺をうまくデジタル化したところにあるが、「時間が不可逆なもの」であるからこそ「取り替えのきかない信用」が「生成」される。これはもしかすると一人の人間、あるいは法人が生成できる財産の中で「最も価値のあるもの」なのかもしれない。

誰でも号砲とともに生まれてくる

「ヨーイドン」である。おぎゃあと生まれて何年経ったかは人それぞれだが、終着地点に到達するまで基本的に人は「他人に関わり」生きていく。

生まれたその瞬間から「ありとあらゆること」を人に判断されながら時間を経ていく。「この子は可愛い顔をしている」「おとなしい」「やんちゃだ」「元気だ」「大きい」「泣き虫」 これら他人からのほぼ無限の「複合的判断の結果」が今のあなたの信用そのものなのだ。

小学校に上がり、中学、高校、大学と「子供としての判断」を終えると就職し「大人としての判断」を経て初めて「外に通じる信用」が形作られる。

口で説明することも、ジェスチャーや態度でも「合法的に信用を改ざん」することはできない。「行動と時間」の両者が相まって生成されるこれを瞬間的に生み出すことは誰にもできないのだ。

そして不思議なことに「この財産」は「正しく使用すれば減少せず、むしろその強度や量が増していく」のだ。

これは驚くべき効果と言える。 あらゆる資産は常にその価値が失われるかもしれない「リスク」にさらされている。が、この最強の財産は「あなたがあなたである限りその価値が保証されているのだ」

まあ、「お金」に価値がある理由は「お金の価値が信用されているから」に他ならないがこの部分をちゃんと理解している人は半数にも満たないだろう。円(JPY)が世界的にみて「安全資産」と評価されているのも日本という国への複合的判断がなされた結果なのである。

個人も会社も国も失敗することがあるし、それはもはや当たり前のレベルにある。失敗が悪いことではなく、大切なのは「時間と行動」だ。その失敗の原因を究明し、被害を最小限に収める努力と再発防止のための努力。それら全ての行動が「他を納得させることができる」ものならば信頼は失われないのだ。

あなたの信用度は何点くらいあるでしょう。

この世で最も尊い「財産」について考えてみるのはあなたにとって非常に有意義なものになると僕は思います。

待っている時間 の方が長い問題

人生を全うする瞬間まで待っている

今までの人生を振り返ってみると、僕は常に何かを待っているような気がする。別に大それた意味ではなくて、「楽しみにしているなにか」を待っている。僕のように好奇心が人よりも強いとどうしても意識が先回りしてしまうので、他の人から見れば「苦しみながら待っている」ようにさえ映るのかのしれない。その上そのサイクルが尋常じゃなく早いので「基本何かを待っている」となるのである。

早いは正義

僕のような変わっている人間は「速さ」にとても価値を感じてしまう。Amazonが最初に登場した時、本当に衝撃を受けた。今でもはっきりと覚えている。注文から到着するまでの速さには感動さえしたものだ。そしてその速さの追求をいまだに行なっている。

文字通り1秒でも早く「それ」を手元に持ってきたい願望の塊の僕には現状うってつけのサービスだ。 今までで一番待つ時間が苦しかったのは車だ。なぜか僕が所望する車はどれもこれも納車までに半年くらいかかってしまう。「待つしかない」から待つことになるが、いくら事前勉強が楽しいとはいえ限度がある。ちなみに僕は長時間待たされれば待たされるほど「元気が無くなっていく」らしい。

おそらく「僕のように待つ」のには相当なエネルギーが必要なんだと思う。

起業するときは審査結果を待つ時間は永遠に感じられたし、工場に発注した自社製品が到着するまでや商談において相手の返事を待つ時間、果てはラーメン屋でどんぶりが到着するまでの時間、信号、とにかく「待て」をくらいまくって生きているのだとつくづく思う。

飼い犬は「まて」ができるようになっているが、基本彼らの「待つ時間」などたかが知れている。 飼い主が「まて」といって「よし」と言うまでのちょっとの時間座っていれば良いのだ。それ以外の時間は自由気ままに「次のまて」を待つだけで良い。

羨ましくはないが、そんなことまで考えてしまう。

全てのことを待たなくてよくは絶対にならないだろうけど、「自分の努力で待つ時間を短縮」することはある程度可能だ。Amazonのプライム会員など、僕はすぐに飛びついた。理由は簡単「早く届くから」

そこに価値を見出し、利益を計上するのだからやはりすごい企業だなあと思う。

時間を売ることを商売にしたいなあ。

今年の漢字 もネガティブなものに

災 

14年ぶりに「災」が帰ってきた。僕が物心ついてこういったニュースが記憶に残るようになってからポジティブな漢字など「金」くらいじゃなかったか。決定方針もやんわりしかないこの「今年の漢字」だが存分に日本人らしさがうかがい知れる。1年の計に向かうこの時期に「反面教師」を用意する徹底ぶりということか。

楽観・希望

この辺は日本人が苦手とする分野なのではないだろうか。確かにリスクを啓発し続けることは大切だけど、「守り」に重きを置く国民性はこの風潮に大きく起因しているように思えて他ならない。 肝心の「攻め方」がわかっていない人は本当に多い。守りが悪いといっているわけではなく語弊を生まないようにしたいがなんでもバランスが大切だ。押し引きは常に極意となり、戦況を左右する。日本人が苦手な愛や救いなどに活路を見出す欧米諸国の方が豊かな理由はこの辺にもあるのだろう。

気分が滅入ってしまうような言葉、文字、などはそのまんま体を硬化させてしまう。じゃんけんも「ぐー」しか出せなくなってしまう。立っていても腕を組んでしまうだろうし、まっすぐ人の目を見ることもままならない。 商談もリスクの部分が心配で大胆な作戦を取れずに敗北し、人事も慎重に、投資も慎重に、、悪循環を生み出し、発展させていく張本人こそこの硬化だ。

スポーツでも格闘技でも芸術でもビジネスでも「柔」は強い。基本的に硬が柔を下すことはほとんどないのだ。

息を止めながらできることには限界があるのだ。真のプロは鼻から息を出しながら動く。脱力こそ最速と経験上知っているからだ。

僕はどんな年だったとしてもポジティブな漢字を選出するべきだとこれについては常に思ってきた。 別に生活に影響するわけでもないただのイベントだ。 それでも人の脳裏に硬化をもたらすようでは本末転倒なのではないか。

いろんな意味を込めてポジティブに変換して欲しいのだろうし、意図は組めるが、そんな風に思慮深く物事を捉えられる人はそもそも困ってなどいないのだ。額面通りで受け取る人が闊歩するこの国でこのやり方はまだ無理があるように思えてならない。

流れているお金 の総量が減少している感

デフレ脱却とは銘打つものの

体感なのでなんの根拠もないが、複合的に物事が入り混じり頭が弾き出す「勘」というものに僕個人としては「一定の信頼」をおいている。 その勘が今日の本題を感じている。トレーダーという生き物は「自分の考えに裏打ちしながら」でしか生存することができないので、こういうことを考えてしまうのかもしれないが少しだけ文章を書いてみる。

クリスマスケーキの平均ホールサイズ

これは割と有名な話で、流れているお金の量と平均ホールサイズが比例するというもの。平均ホールサイズが例年よりも大きければ基本的にロングで良い。

女性の眉毛の太さなんかも指標だったりする。細眉全盛の日本は空前の不況真っ只中だったし、世界の歴史を紐解いてみても同じような現象は散見される。

これは人間の防衛本能が存分に無意識に発揮されているからに他ならない。人間は脅威を感じれば縮まって、固くなる。逆に安心すれば緩んで柔らかくなる。これは財布のヒモにも直結する摂理だ。熱膨張の原理もしかり、物理とは実に奥深い味わいがある。

青に寒さ、赤に暖かさ。それもおんなじ。

経済に関してはこれが最もいけない反応となる。お金の流通量を本能に任せてしぼませてしまう人間だが、「出て行かないお金」よりも「失われる利益」の方が大きいという原則が存分に発揮されるからだ。

流通量が減るとお金の価値が減少すると言い換えても良い。

良い結果も悪い結果も全て人間のせいなのだ。無自覚も大概にした方が良い。知っている人の元にしか富が集まらなくなるし、それさえも緩やかな崩壊のアコードとなる。

お金の教育を敬遠してはいけない。正しく理解せずに正しく使用することなど、どうしてできようか。 箸の持ち方や挨拶、それと並ぶくらい「当たり前」の教育だ。 だって世界は昨日も今日も明日も「資本主義社会」なのだから。

今の若者はものを欲しがらず、お金を使いたがらないという。それに大人は首を傾げている。 そういう子供にしたのは「大人」なのにだ。

そういう若者にクエスチョンを投げかければ「将来が不安だから」と画一的な答えが返ってくる。 そこが一番間違っているということを考えることはもちろんないが。

わがままが通る時代の子育ては次世代を担う考えを持ってなどいない。それは甘やかした「大人」が悪い。もう全面的に悪い。

自己中ここに極まれり。

嘆こうにも「何を嘆くべきかもわからない」大人たち。

人のせいにしている時点で「大ズレ」なのだ。