初期のお客様の変遷と感謝

僕は今まで数多くの「商売」を始めてきた。その中で「失敗だった」と言うことができるのはひとつだけだ。それは「自分のために」作ったバーだ。調子に乗った芸能人やどっかのブルジョアがよくやるアレだ。反省は色濃く僕の脳裏に焼きつき、心配性に拍車がかかっていい感じではあるが、「心配性で大胆な僕」はその失敗を十分に糧にできたような気がする。相反する二面性を生まれながらに宿すのが人間だが、そのギャップが大きければ大きいほど魅力は増すように感じる。

オープン日初日の緊張と最初のお客様

開店告知でご来店のお客様というのは経営が軌道に乗った後のそれとは比べものにならないほど少ない。誰でも心理的に「評判が出揃ってからでいいや」と意識的にも無意識的にも考えるものだ。つまり最初から来てくれる人はどちらかというとイノベーター気質を持っている人。もっとわかりやすく言えば「最高のお客様としての気質を持っている」ということが僕の経験上断言できる。

数多の商売が乱立する中で経営を軌道に乗せ発展していくためには「太く、情熱的なお客様を多く獲得することが大切」だ。もちろんステップ的に最大の数のお客様は「評判に移ろいやすいお客様」という構図は基本的には避けられないが、一番最初の頃にどれだけこのイノベーター気質のお客様を多く獲得できるかというところに実は真髄が隠されているのだと信じて疑わない自分がいる。

そしていつでも僕は最初頃のお客様を他のお客様にもわかるように特別扱いしてきた。言葉でも態度でも表現し、愛妻家が妻に毎日するように愛情を表現するという経営方針をとってきた。そしてそれは常に功を奏してした。

「一番最初の頃のお客様は大切」なのだ。

今まで成功も失敗も含め店なりビジネスを辞めるその日、僕のところには「最初期のお客様が必ず居てくれた」これがどれだけ凄いことなのかは簡単に伝わるはずだ。そしてお祝いだったり、労いを精一杯僕にくれた。

これこそが商売の鉄則なのだと僕は心に刻んでこれからもあらゆるビジネスを行っていく。

「移ろいやすいお客様が最大数」と言うのも争うことのできない真実ではあるが、その数だけは経営者の行動でなかなか制御できない部分だ。ではどうやってその移ろいやすい人々を集客するのか。それは間違いなく最初期のお客様の日常だ。それらのお客様の頭には色濃く僕の商売のことがインプットされている。日常的にその話を周りにフワッとしてくれる。それが「口コミ」だ。無意識に「自分で選択することを諦めている」移ろいやすい人々は無意識に「自分でものを決めようとしない」が、身近な人の言葉は「鵜呑みにする」のだ。

この不思議な化学反応が経営を最序盤で決定づける出来事となっていく。

僕は今取り組んでいることがあるが、最序盤の今、今までと同じように、あるいはそれ以上に「一番最初の頃のお客様」を獲得できていると思っている。

それは心地の良い過去の記憶との整合性がとれ、僕の心をこの上ないほどにリラックスさせてくれる。そして文字どおりの活力を僕に与えてくれて、より良いクリエイティビティをもたらしてくれるのだ。

アドバイスを受け入れられる時

僕は生まれてこれまで、他人様からの「アドバイス」を素直に受け入れたことがなかった。基本的には全てに反抗していくスタイルだった。単純に負けず嫌いというわけでは無く、「知った風な口」をきく人は実に多く、その言葉に重みも責任も感じないというのが正確な表現のはずだ。僕が丸くなったわけでも衰えたわけでもない。空腹の狼のように今でも全てに反抗する準備はできている。

的確に見抜かれているという現実

年齢も性別も関係ない。圧倒的な実力差を僕は認めていたのだろう。その実力差を言葉で表現することも僕はできないレベルだ。僕のスランプを的確に時系列を追って把握し、必要な言葉を最小限度で使い、アドバイスされた。

そのほとんどは僕は「できていたこと」だった。無論、頭で理解もしているはずだった。新しいステップに登り、さらに上を目指そうとするのに、気持ちばかりが先行していたことをまんまと「気付かされた」 もしかすると僕が感じるような深い意味は含まれないアドバイスだったのかもしれない。でも「結果」としてそれは今の僕にとって「最高のアドバイス」となったのだ。

別にどんな人間だって構わない。クズでもバカでもデブでもハゲでもなんでもいい。ある一点において人は人を救うことができるのだと。痛感させられた。

何を隠そう、僕は今までの人生は「アドバイザー」として生きてきた。これからもそれは変わらないだろう。

だけど、僕は今日、アドバイスを受ける人の気持ちがようやくわかった。これからの自分のアドバイスがどれくらいの人たちの役に立つかわわからない。だけど、「突き刺さる人」は居て、今この瞬間もそれを無意識に望んでいるのだと。

圧倒的な高みから、嫌味なく、心の奥底にそっと届くアドバイス。

それは何ものにも変えられない「救い」そのものだった。

人が「認められる」ということ

こんなにも嬉しいことはない。他人から「認められる」ということは「成功の縮図」そのもののように僕は思う。「自分で」認められるために邪な考えを持って動いてもそれは得られない。自分が信じた道をただひたすらに信じ続けること。まずはそこから始まる。そしてその先にそれが「認められるかどうか」なのだ。いわば「通信簿」といったところか。

うまく言えないかもしれないけど、

最近僕の友人が「認められた」のだ。僕は表立っておめでとうを伝えていないけど、(こっぱずかしい)自分のことのように嬉しい、暖かい気持ちになった。

その友人は自分の信じた道をただひたすらに信じ続けた。それは途方も無い時間と労力を費やし、十分すでに多くの人から信頼を得ていた。だけど、僕たちの業界は「天井」が無い。生涯賃金は決まっていない。まさに青天井。そのステップを「他人様が認めてくださる」ことでひとつづつ登っていくのだ。

ヘトヘトで足元はおぼつかない。頭は常に微熱気味、引き返そうと思っても階段は無く、奈落の底まで続いているようだ。そしてやっとのおもいで「ひとつ」登っても、次のステップは姿も形も違う「登り方のわからないステップ」となっている。(ひどいでしょう?)

誰でも不安や恐怖がある。それをなんとかヘッジするための選択として、企業に雇用されるということを僕は尊く思う。それはそれで素晴らしい人生とも言える。

しかしながら、我々はその選択肢を放棄した側の人間なのだ。だから責任も尋常で無く重く、抱える悩みの質もちょっと種類が違ったりする。(優劣の話では無い)

自分の発言ひとつ、寝坊ひとつ、振る舞いひとつであっさりと「すべて」が瓦解する恐怖に「四六時中」対面すること。が最低限の資質だ。

その上でただひたすらに「自分を信じる」ことが仕事だ。

そしてそれは蕾のままで終わることも、大輪を咲かせることもある。どちらになろうとも、「信じ続ける」ただひたすらに。

彼は今回非常に大きなステップを超えた。仕事の規模はグンと大きくなるだろう。 そしてそれを自分のものにできるだろう。なぜなら彼は自分自身を今までもこれからも「信じている」からだ。それ以上の武器はない。まさに唯一無二そのものだ。

こっそりと「おめでとう」と書いておきます。

いつか我々にも剣を置く日が来るだろう。

でもそれはまだ随分先のことだ。

駆け引き の難しさと勝敗

勝ち負けが存在するあらゆることには「勝因と敗因がある」しかしながらこのふたつは決してオセロのような単純な裏表の関係ではないと僕は考えている。もしも最高の勝者と最高の敗者しかその勝負に関与していないのならオセロでもコインでもいいが、きっちり裏と表となる。でもほとんどの勝負事は「負ける側に明確に負ける理由が存在し、かつそれに気づいていない場合。そして気づいているが制御できない場合」があるように思う。

極論を言ってしまえば「勝手に敗者になる」

勝者はいつも賞賛を浴び、その栄誉を讃えられる。敗者も勝者に対して最大限のリスペクトを表明するべきだし、勝者も敗者をねぎらう方が格好いい。

それはさておき、対戦相手のある勝負事の場合、僕は勝者は「勝手に生成されるもの」と考えている。もちろんそんなに簡単なことではないが、ある一つのルールの中で勝負するときに、その勝負の勘所や所作を完璧にマスターし応用が効く人と、その完成度が80%くらいなのに完成したと思い込んでいる人が戦うと言わずもがな「マスター側」が勝利するだろう。

僕はいつも思う。マスターが勝つべくして勝つのではなく「敗者が当然に負けるから勝者が生まれるのだ」と。 (ナンジャそらと言わないで)

その理論で当てはめて考えれば「勝因」なんていうものは非常におぼろげで不確定なものだ。

しかし「敗因」はどうだ。

毎回非常に明確に足りないものを示してくれるのではないかと思う。

「相手が悪かった」とよく耳にするが、そうではない。「相手より足りない自分が悪い。そして何が足りないのか知ることができるでしょう」ということなのだ。

敗因の的確な分析と考察は、次にそれが原因で「敗者となる」ことを少なく、あるいは無くしていける。

いつかはマスターになる道理だ。階段は飛ばしてはダメだとつくづく思う僕です。

焼肉が食べたい時

焼肉ってなんだよ。フライパンで肉を焼いて食べるのも美味しいけど、それとはまた違った食事だ。「焼肉屋」で食べる焼肉は美味い。家でそれっぽい器具を使ってもなんだか違う。不思議ですよね。「ライブ感」がいいのかな。ジュージュー あとビールも美味い。煙いのは嫌だけど、無煙だと味気ない。匂いがつくのは嫌だけど、匂いがないのはもってのほかだ。焼肉っていう食事はこうも人をわがままにする。

今日は珍しく「書きたいこと」がないのです。最近は朝の5時とかに執筆時間を持ってきているんですけど、それのせいではなさそうです。お腹は確かに空いている。でもわざわざ焼肉を食べに行こうとまではならない。(歩いて5分以内にこの時間でもやっているお店があれば行くかも。。)

頭が空っぽになりたがっている。好きなことを考えさせてあげるタイミングです。だらだらと脈絡のない文章を出力させましょう。

皆さんにもあるはずです。「失敗とまではいかないけど、なんだかうまくいかない日」みたいなやつ。

今日はそんな日と割り切って、美味い酒と食事と休息で英気を養うとしましょう。

終わり

技術向上 の効率化と努力

僕はこの手の努力が大好きだ。ドラクエのレベル上げみたいな単調な作業も好きだし、頭を悩ませ、自分なりの答えを模索するのも好きだ。ひとつ思いついてはそれを本気で試して標本を集め、検証し、取捨選択を繰り返す。その正解も不正解もすべからく自分の血となり肉となって、理論に裏打ちされた力となって蓄えられる。

再現性が最も大切。

スポーツでもゲームでもなんでも「成功体験を再現」させることができなければそれは実力でもなんでもなく、ただの「偶然」ということになる。もしも偶然ではないにしろ、「ものになっている」とは到底言えないということだ。

例えばボーリングなどは非常に例として扱いやすい。(僕はボーリングが大の苦手だ。)あのスポーツは本気で取り組んでいる人たちをのぞいてしまえば、完全に「誰でもある程度楽しめるレクリエーション的な位置付け」のスポーツと言える。椅子に腰掛け、ドリンクや食事を楽しみながら、息が切れることもなく、手軽に遊ぶことができる。男女差、年齢差も遊びでやっている人たちにすればハンデにすらならない広い懐があるスポーツだ。

初めてボーリングをした日に「ストライク」が出なかったという人は稀だと僕は思う。(そのストライクにはなんの価値もないが)あのルールは実に絶妙で、1番の成功である「ストライク」が「偶然出る確率が高い」のである。

この辺が今でもボーリング場が各都市に健在な理由だろう。

誰でも思うはずだ。「自分はボーリングがそこそこ上手いぞ」と。

だが、それは違うのだ。ボーリングでご飯を食べている人に「ストライク」を依頼すれば「9割9分」くらいの確率でストライクを披露してくれるだろう。

それこそが「再現性」であり、「理論に裏打ちされた実力」と言える。

別に遊びでやっているのだからそんなこと言われてもと思ったあなた。

これは例えである。(悪しからずご了承いただきたい)

人間とは実に不思議な生き物で、裏打ちされていないものをあたかも当然のように自分の実力と信じて疑わない図太さを持っている。

上記のせいで「負けて当然の戦い」を平然と行い、悔しがったりする。それはこれ以上ないくらい盛大な矛盾だ。

僕は取り組もうと決めたことはなんでもスイッチが入ったように、ガムシャラに検証を繰り返し、最短ルートを模索しながら、向上しようとする。そしてその時間は至福の時間だ。

悩んで苦しむことがそんなに好きなのかと自問自答する日々だけど、その先に何が待っているかを知っていれば、それはこの上ない幸福な時間となることを僕は経験上知っている。

距離が定められているマラソンは競技として「成立」するということか。

地域性 というのは確かにある

僕は結構色々なところに住んだことがある。具体的には控えるが、関東だけでも4回住まいを変えている。 新し物好きで自由人なので、引っ越しは「しなければいけないもの」ではなく僕に取っては「リフレッシュ」「モチベーションの向上」など、ちょっとしたイベントそのものなのだ。インターネット環境さえあれば仕事ができる。今の自分の状況には非常に満足している。

でも「地域性」だけは住んでしばらくしてジワジワ

現在住んでいる場所の地域性は「我先」だ。もう子供も大人も犬も猫も「待っていられない」のである。コンビニの出入り口なんか、文字通り「人間で詰まってしまう」時もあるほどだ。車の運転もそう。「絶対譲らない」のだ。お店から道路に合流しようとしてウインカーを立てていても、譲ってくれるのは「県外ナンバー」だ。レジで並んでいてもグイグイと近寄ってきてこちらを急かしてくる。

財布を覗かれるくらいの距離まで平然とくるのでほとほと嫌気がさしている。そういう人が「たまにいる」なんてもんじゃない。「毎日遭遇するレベル」でいる。

飲食店でも僕が店員さんに注文している景色は見えているはずなのに「すいませーん!」と店員さんを呼んだりする。

これってかなりやばいですよね。

世界には自分しかいないと本当に思っているのではないかと勘ぐってしまうぐらいの日常が今住んでいるところにはある。

一応馴染みのお店のマスターにそっと聞いたことがある。(マスターは婿としてきた県外人) そのマスターいわく「この辺はほとんどが地主とか金持ちばかりで、偉そうな人が多いよ」とのこと。

うーんと思ってしまったが、僕が思う「ムカつく金持ち」というのは「生まれた家が金持ちだった」タイプだ。 まあ地主の小せがれがこのタイプに最も多いだろう。 もちろん全部の地主の小せがれがそうだと言っているわけではない。(いちいちこんなこと言いたくはない) 生まれた時から好き放題で生きてくればそりゃろくなもんになるはずがない。そういう人たちが「いっぱい」いる地域なのだそうだ。グエー

空気はきれいで気に入ってはいる。が、出かけるならわざわざ遠出しないとストレスばかりたまってしまう。

考えものだ。

ニーズ に応えるということ

求めているものを想定し、提供できるか

世界中のビジネスマンがこの究極の問題に日々取り組んでいる。お客様のニーズは実に難解で、不確かで、傲慢だ。それでも自分がこの道を選んだ以上はそれに立ち向かわなくてはならない。僕なりの考えだけど、ニーズというのは「先に応えて差し上げるもの」と認識している。誰でも経験があるのではないだろうか。如何にも良さそうな商品を、開けてからガッカリする現象を。

ニーズには先に応えなくてはいけない。

ガッカリ現象を体験したお客様は2度とその商品を手に取ることはないだろう。しかしながらそれを販売した業者は「それでも良い」と考えている。これは現実にそうだ。そういう業者は絶対に自社製品をプライベートで使ったりはしない。それが「食品」だったとしても「絶対に食べない」裏では「食えたもんじゃない」なんて言っているはずだ。

圧倒的な人口とその中で「一回でも売れれば良い」商売が氾濫している。

僕は決してそのような商売をしたくないと思ってきた。小さい頃少ないお小遣いを貯めて買ったおもちゃが、全然期待はずれどころか、完全なる粗悪品で、おさな心は完全に傷つけられた。やりようのない怒りと悲しみが今でも思い出される。

僕のところから何かを買いたいと思ってくれるお客様はどんなものを欲しいと思っているのか。それを考えるのはいつも楽しい時間だった。そしていつも答えが出ると僕は戦慄した。その難易度が僕の限界を超えていることがしばしば起こったからだ。

それでもなんとしてでも僕はその限界を超えて、「僕が僕である証明」をし続けることでしか、ニーズに応えられないことを知っているし、そうしてきた。

自分で決めて、自分で苦しむ。そして誰にも真似できない何かに到達できたとき、僕もお客様も幸せになれるのだ。

「ニーズに応える」というのは生半可なことではない。

「頑張ればどうになかる」類のものではない。

いつか僕もとうとう自分が設定した目標を達成できない時が来るのかもしれない。でもそれまでは自分を誰よりも信じて戦い抜こうと思う。

そうやって勝ち取った何かは他の誰にも奪われない僕の宝物になるのだから。

いつでも冒険に出かける前の晩は興奮して眠れないものだ。

乳酸菌 ってなんなのさ

乳酸菌ボールが欲しい

とある友人から「最近行きつけのラーメン屋でトッピングメニューの中に乳酸菌ボールってのがあって、店主がやたらに推してくる。」と聞いた。僕は乳酸菌のことは「その読み書き」くらいしか知らないので、何もわかっていないに等しい。なんでもそのトッピングを追加すると乳白色のボールがもらえる。それをラーメンに溶かして食べるのだそうだ。

店主曰く「熱に弱いからできればそのまま」

盛大に矛盾しまくっているこの店主だけど、友人が聞いたところによると、その店主自身が「乳酸菌ボール」に救われたそうなのだ。太り気味だった店主は半信半疑で乳酸菌を摂取したところ、みるみる体重が落ちて今や健康そのもののようだ。これはみんなに勧めたいと、自身が経営する味噌ラーメン専門店に投入したそうな。

トッピング価格は驚異の100円。

それで毎日ラーメンを食べても、、健康に、

その友人は必ず「乳酸菌ボール」をトッピングするようになったそうな。しばらく連絡を取っていないので、もし次に会った時、彼がほっそりとしていたら、と思うと楽しみである。

で、乳酸菌ってのはなんなのよ?っていう疑問をすっ飛ばして僕は「乳酸菌ボール」を買えないかと少しだけ努力してみた。某ネットジャングルで検索しただけだが、なぜか、「犬猫用」のものしか出てこないのだ。

「人間様用」はついぞ僕のスキルでは発見できなかった。

業販専門なのか。などと考えたところで思考停止したが、メシアとしての乳酸菌にいまだに僕は恋心を抱いている。

勉強はしていない。理由なんかどうでもいい。乳酸菌を摂取したい。

コンビニに売っているカロリーゼロの機能性表示食品で「カラダカルピス」というのがある。毎日1本いただいている。うまいよ

「よく振れ」とのお達しがあるのでよく振って飲んでいるが、ペットボトルを逆さまにして振ると、底の部分にベージュ色の「乳酸菌さま」がいらっしゃるのだ。

ご尊顔も一瞬でカルピスの海に飲み込まれてしまうくらいしか入っていないが、僕のカラダには「変化!」が起こっている。

とにかくお通じが良くなったのだ。

こうなってしまってはカラダカルピスでは満足できない。

誰か、乳酸菌ボール、ご存知ないですか。。(ラーメン屋は県外)

ゲーム にハマるいい大人

以前までの嫌悪感はもうない

僕にとってゲームというのは小さい頃から「友達と遊べない時に一人で遊ぶもの」あるいは「天気が悪く外で遊べない時に友達と室内で遊ぶためのもの」くらいのものだった。ドラクエやファイナルファンタジーが好きだった(FF派)友達とやるときはマリオカートやストリートファイターなど、飽きずにいつまでもやっていた。

競うということに目覚めた

小学校の時など、勉強で優劣をつけて暗黙の上下関係など感じない時代に初めて他人との優劣を感じるのは運動やゲーム、特に身体能力のほぼ関係ないゲームはいい意味で競うことを学ぶ事ができる良いコンテンツだった。(そう思うと僕は小さい頃からフェアな生き物だったみたいだ)

「どうしたらあいつに勝てるか」「上手くなるためには何をすればいいか」をワクワク考えたものである。 「緊張」も味わった。

仕事ばかりでほとんどゲームのことなど忘れていたが、去年の5月にビッグタイトルのモバイル版がリリースされ、僕はまたゲームにハマることになった。

PUBG (プレイヤーアンノウンバトルグラウンド)

北野武主演の映画「バトルロワイヤル」に触発され製作されたゲームで100人のプレーヤーは飛行機で「島」に連れていかれる。任意の場所にパラシュートで降下し、銃器や防具などを集め、最後の一人になるまで戦う。(生き残る)事が目的だ。

島は広大で8キロ×8キロだ。そこには海や、川、橋、街、集落、山、シェルターなど多種多様な建造物や自然がある。徒歩や車、ボートなどを駆り、生存を目指す。

戦術も自由だ。(現実の人間ができない行動以外全て可能)

とにかく銃声の鳴る方に赴き、積極的に生存を勝ち取るもよし、

ただひたすらに身を躱し、その時をまつもよし。

1試合30分。

時間経過とともに競技スペースはどんどん縮小されていく。競技スペースの外にいることも可能だが、ダメージを受ける仕様だ。最後には競技スペースはなくなる。

−小さな頃、友達と2人プレーで遊ぶゲームが楽しかった。

小さいテレビ画面を分け合って遊んでいた。

それが今はどうだ。

100人の友達と、たった一つの「場所」でゲームができるのだ。しかもこれ以上なくフェアに。(お金をかけたからといって強さには関係ないところも素晴らしい)

携帯端末の目まぐるしい進化はとうにコンシューマー機を追い越し、こんな複雑な重量級ゲームを60FPS(1秒間に60コマ)で動かし、100人もの人間を同時に同期させることに成功している。

これはとんでもない市場だ。

競技性も極まった。

いい大人でも十分に楽しめるはずだ。