最大の敵 は自分自身なのだと

選択の連続で形作られる

右に曲がるのか左に曲がるのか、あるいは直進、後退することも立ち止まることも基本的には自由だ。現代において最低限のルールの中にいる以上「自由」が常に保証されている。もちろん誰かが幸せにしてくれるわけでも、ご飯を食べさせてくれるわけでもない。それでも「決断」を下すのはどこまでいっても「自分」ということだ。そしてその決断によってもたらされた結果を嫌でも受け入れる必要がある。

決断力っていうとなんかピンとこない。

決断するだけならばハッキリいって誰でも簡単にできる。「決断」が本当の意味で難しい理由は決断後の展開に自信があるか不安が多いかのことに頭を悩ませることが原因だ。「この決断の先にはどんなことがあるだろう」と考えれば誰だって二の足を踏まざるを得ないのである。責任は取らねばならない。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」

有名な言葉だが、僕はこの言葉が好きだ。敵の力量なんて正確にわかるはずがないが、得ることのできる情報を可能な限り多角的に分析し、己の状況や能力と照らし合わせる。その結果勝てると踏んだ時のみ行動を起こすようにすれば100回戦っても危なげないということだ。

そしてこの言葉の素晴らしいところは「戦わないという選択」も含まれているというところ。

やられるかも知れない状況で戦いに行ってしまっては、いつかは敗北してしまうのだ。これは摂理。どうすることもできない現象だ。 だから攻める決断が下せないときは「引く決断」を自信を持って下す。そしてその結果チャンスを伺うことができ、次の勝利までの時間を稼ぐことができる。

よく必勝法などと銘打って発表しているものを目にするが、それは当然ながら不可能だ。「必勝法が確立している競争には競争がすでに成立していない」というジレンマに気づくべきだ。

もしもそういった発表の中に「負けない方法」というセンテンスを発見できれば僕は若干の興味をひかれる。

「必ず勝つことはできないが、極限まで負けにくくすること」は可能ということだ。それはあらゆる競争、ビジネスにおいて極意となる考え方だ。

「押してダメなら引いてみろ」も良い言葉だが、僕がより好きなのは「押す前に考えろ」である。

押してダメだったと気付くのでは若干遅い。

その若干という刹那の中でも十分に勝敗が決するだけの悠久が存在してしまうからだ。

不確定要素の可能な限りの排除に取り組み、排除しきれない要素全てが自分の行動に反作用してしまった場合でも勝てると判断できる時だけ動けば良い。

戦わないことを選択できるって格好良くないですか?