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過ちをおかしてしまったとしても償えばよい

もちろんこの世には償えない過ちもある

今日話したいなと思ったのは償える類の過ちだ。例えば興奮して味噌汁をテーブルにこぼしてしまったり、洗濯物の中にペンを入れっぱなしでホワイトシャツがホワイトシャツでなくなってしまったりした時のこと。そして仕事でもそうだ。自分のミスでチームの足を引っ張ってしまったとしても、会社に損害を与えてしまったとしても、ほとんどの場合償うことができる。もちろん償ったとしても過ちをおかした時よりもちょっとマイナス地点にはいることになるが、そこに昨日の自分はもういない。

現在世間を賑わせている人

ニュースも見出ししか見ていないので詳しく言及できないが、何年かに一度は紛争地帯に潜入するジャーナリストだかカメラマンだかが捕まったり怪我をしたりする。

彼は無事に帰ってきた。時間はかかったが。それはとても尊いことだ。そして喜ぶべきことでもある。日本人が日本に無事に帰ってくる。それはとてもいいことだ。

ただちょっと出かけ方がよくなたっかのではないかとお叱りを受けているのも理解できる。彼を救うために税金がとか何だとか不透明な部分はこの際どうでも良い。

問題なのは「世間様を騒がせた」ということ。よくも悪くもざわつかせたのだから、その落とし前は彼なりにつけるだろう。つけなければいけない。

しかしそれは他人が強制できる類のものではないのもまた事実。

それと同時に彼が落とし前を付けなければ色々大変なおもいをするだろう。

世間とはそういうものだ。


人のものを壊してしまった時などは「弁償」となるのは当たり前だが、その弁償という動作を持ち主にやれと言われると人は面白くないものだ。

しかし自分が相手のものを壊してしまったと自負があるとき、相手に弁償という言葉を言わせる前に行動することこそ大切な思いやりなのではなかろうか。

「弁償」と「償い」は似て非なるものと僕は考えている。

失われたものをもとに戻すことは基本的にできない。しかし、可能な限りもとに戻す努力を率先して行うという行為そのものを償いというのだ。弁償とはただの名前だ。

人の気持ちの入り混じる関係性においてサバサバと名前のある行為をもって「はい終わり、文句ないでしょう」という人が稀にいるが、それは違うだろうといつも思ってしまう。

以前高級車に乗っていて、自分の店の前に停めていた。そこにおばあさんが自転車を押して歩いてきて傘をさそうと自転車をとめた時、スタンドがうまく立っていなくて、自転車が僕の車の方に倒れた。とっさに手を伸ばそうとしたおばあさんは体勢を崩したが、近くにいた僕はおばあさんを支えることができた。自転車は倒れ僕の車にぶつかった。 もちろん少し凹んだ。イモビライザーも作動した。 慌てふためくおばあさん。「この車の人はどこだろう」と周りを見渡す。ブザーを止めながら「この車は僕のだから大丈夫ですよ」と言い、無理やり帰ってもらった。

それからおばあさんは野菜だ果物だと店に持ってきてくれるようになった。寒い時期に半纏を持ってきてくれた時はおばあさんと大笑いした。「風邪をひいたらダメだ」そう言って帰っていった。

車が凹んだ日からおばあさんが自転車に乗っているのを見た事はなかった。

もちろん気を使わなくていいとなんども言ったがいうことを聞かない。結局店を引っ越すまで何年も季節の変わり目をその足で届け続けてくれた。

おばあさんなりの償い。その気持ちが僕をどれだけ暖かい気持ちにさせてくれたか。

言うまでもない。

 

ぜひこちらもお読みください  問題山積 な時どういう行動を取るか

 


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