お年寄りになると子供に戻るというが、

これまた深刻な事なのかもしれない。

現代の子供たちが、甘やかされて育った親に育てられた結果、大人をものともしない子供たちが量産されてしまったことは頷ける。そして「その親を育てた親」が現在「お年寄り」として君臨している。決して括って語っているとか、決めつけているわけではない。←いちいちこんな脚注をつけなくてはこわくてものも書けない時代になっているということにほとほと嫌気がさしているということなのかもしれない。

犬ころの散歩中に買い物をしたんですよ

別にそれはなんてことない日常。でも今日はひどかった。まずはコンビニに行こうと歩いていると、道に婆さんが落ちていた。ある程度近づいて「おかあさん大丈夫ですか?」と声をかけた。「ちょっとつまづいちゃって、でも大丈夫」と返事が。パッと見た感じ怪我もないようなので安心してコンビニへ。するとその婆さんもコンビニへ。さっきまでピンピン歩いていたのに、入店するなり腰が曲がり棚という棚全てを「手すり」がわりに歩く。商品はガタガタに。店員が「大丈夫ですか?」と聞くと「大丈夫」と。

(その婆さんはホットコーヒーを買ってその場でこぼしていた)

頭の中がクネクネしたけど、レジに並んだ。する僕の前で会計していた違う婆さんが某リポビタンを店員に開けさせていた。そしてその場で飲み始める。グビグビ。店員が僕をレジに促すがグビグビはどかないので、僕は揚げ物の前で店員にタバコを注文(アイコス) 僕の会計をしている最中にその婆さんは盛大なゲップとともに空き瓶をレジに置き、「タクシー呼んでくださる?」と。。

店員も「お待ちください」とピシャリと言うものの、暖簾に腕押し。

僕が揚げ物の前から手を伸ばしてお釣りと商品を受け取る最中も婆さんはどかなかった。

やれやれと思って揚げ物の前から出口に向かおうとすると、店のすみのATMの方から爺さんの怒鳴り声「おい!違うカードが入って出てこねーぞ!」と。

確かに一字一句違わずこう言った。

店員に同情しながら退店したが、帰り道は爺さんの言葉の意味を考えた。

・何を入れたのか。

・スリットに入るカードならば取り消しボタンでカードが排出されるのは当たり前だが、そもそもそのことを知らないのならATMを使用すること自体できないのではないのか。

・「違うカード」を入れたのは自分なのになぜ上からなのか

・電話機だと思ってテレカを入れたのか。(入るのか)(確かに受話器もテンキーもあるが)

犬ころは相変わらず落ち葉に夢中だ。

これは実話である。

もちろん、痴呆や徘徊など、介護を必要とするお年寄りを抱える家族の心労は想像を絶するものがあるとは思うが、そもそもの人間性がこうも簡単に失われるとは到底思えない。(今日出会ったカオスな人々は痴呆でも徘徊でもない)

何不自由ない生活が生み出す弊害について真剣に考えておく必要はどんどん強くなっていくだろう。



最も効率の良いマーケティングとは

今も昔もそれは口コミ

結局のところ自分に確固たる自信ややる気が無い場合新しい店に一人で入ったり商品を試してみたりするというのは一定の不安や恐怖がついて周り、心理的に敬遠してしまうというのは起こりがちな現象だ。世界の国々を見ても日本はこの傾向がとても強い。それは「もっている国民」だからだ。もたざるものでは無いのだから、「資産を守らなければ」という防衛反応が無意識下で働いているということに気づいている人は少ない。

もしも預金残高0で財布にも0だったとして

仕事もなく住む場所もない状態で「食べられそうな植物や生き物」を食べない人は実はほとんどいないのだ。「もっていない状態の人間」は実に逞しい。お腹を壊そうが、病気になろうがとにかく遮二無二生きようとする。

ではもっている場合(日本人)の場合はどうだろう。 おそらく、「より美味しいもの」「より健康的なもの」を欲するのではなかろうか。

「もしかしたら美味しくないかもしれない」「もしかしたら不健康になるかもしれない」ものをわざわざチョイスするだろうか。

答えは言わずもがなとなる。

つまりはそういうことなのだ。「自分」よりも先に「実際に」それを「試した人」の言葉はずる賢い人間にとってこれ以上ない信用材料となる。もしもそれが自分の友人だったり、家族だったりすれば猜疑心さえも皆無となり、良いお客様の一丁上がりという具合だ。

ではもたない人はどうだろうか。答えは全く逆のことが起こるということ。ここは日本で、僕もあなたも日本人なのだから続きは控えることにする。

話を戻せば日本や先進国における「口コミ」の効果の高さを実感できることだろう。上記の理由から裏を返せば「口コミ」こそ「新規顧客」を開拓する上で最も重要な戦略の一つとなるのだ。

レビューサイトを見たことのない人はいないだろう。その商品を試したいけど、先駆者はどのような感想をもっているのだろうと。

果ては学校の口コミ(内申)をもって企業は一時的な審査を行って人材選定の足がかりにする。

つまるところ先進国であればあるほど口コミの価値は上昇傾向にあるということだ。それも常にカンカンになっている。

であれば口コミを誘発するような、あるいは仕向けるような戦略を企業としては立案しなくてはいけない。インターネットインフラがほぼ完成された現代においてその威力はますます上昇し、隆盛を極めんとしている。

インフルエンサーは一昔前「ご意見番」などと呼ばれ長年映画に出続けた名俳優の文字通りの鶴の一声に企業が大枚を叩いたものだ。新聞の一面もしかり、べらぼうに高い広告料を必要とした。

しかし今となってはそこらへんの頑張っている小ぎれいな主婦さんのブログからでもメガヒットが日々量産されている。情報は氾濫し、消費者の目も肥に肥えてきている。

それでもこの「口コミ」というのは廃れることのない最強の効果を担保する行動なのは変わらないと僕は考える。

であれば、「どうやって口コミを発生させるか」にほとんどの時間を費やすのも費用対効果を考えれば十分真っ当な答えとなり得るだろう。

原理原則 に思いをはせる

腹が減るから食事をする。

一つの作用が対となるもう一つの作用を促すため、あまりこの部分に着目して考察する人はいないように思う。ビジネスにおいてはこの部分をいかに「準備」できるかで大きく結果に差が出るが、こういった天秤を具体的に意図をもって考察しないことには再現性のほとんどないなんちゃってビジネスが乱発されることとなる。

奪い合いという前提

一番わかりやすい相場の世界では僕が計上した収益を誰かが損益として計上しているという事実がある。よく「あぶく銭」などと揶揄されるがそれは絶対に存在しないものだ。僕はやらないが、例えばパチンコで「勝った!」と喜ぶ人がいるのは「負けた」人がいるからだ。一つの勝ちを、一人あるいは複数で賄っているのだということを忘れてはいけないし、しっかりと考える必要がある。

これはあからさまな奪い合いだ。誰しも小さい時に椅子取りゲームをやったことがあるだろう。あれはまさに人生の縮図だ。まあ厳密には敗者が「脱落」することは生物学的な死を迎えるまで規模の縮小はあれど無いわけだが、皆さんも血相を変えて見えている椅子に尻を持っていったことと思う。

誰も目の前で苦しんでいる人を見捨てたりはしない、何もできなくても心を痛めるくらいは誰もがする。

では見えなかったらどうだろう。

あなたの預金残高にあるお金はアスパラのように何も無いところにニョキニョキ生えてきたわけでは無い。

誰かがあなたに「支払った」からそこにあるのだ。支払った人の帳簿には経費として確かにマイナスが記されている。 もちろんあなたは貴重な時間と労力を販売したわけだからそれを得るのは当然だが、論点はそこでは無いということ。

例えば僕が企業を買収したとしよう。大幅な経営改革を施すにあたり、従業員の大規模解雇を実施したとする。 だけど僕にはその人たちの顔はわからないのだ。 よく世界の投資家たちはパソコンのワンクリックで地球の裏側にある工場を2つも3つも閉鎖したりしたものだ。しかし、目の前で苦しんでいる人を見捨てられなかったりする。

どこまでいっても人間とはそういう生き物なのだ。

でもそれでも、原理原則を理解するのは必須なのだと僕は思う。

当たり前なんてこの世に一つも存在していない。

その辺を理解して初めて優しさや感謝は意味を持ってくる。

ポジティブないたちごっこ

ずっとそうやって生きてきた

現在メインの仕事以外に手がけているプロジェクトはかなりパソコンのスペックを要求するものだ。具体的には動画編集をやっている。新たに揃えた機材は初めてのWindows機でBTO(セミオーダーメイド的な)で発注し、新たにメモリを自分で増設したりもした。Windowsの起動にかかる時間は驚異の6秒弱、もっさりと意味不明なアプリをちまちまと立ち上げては息継ぎをするというイメージはもはや過去のもののようだ。

パソコンとはキッチンのようなものだ。

Windows機はマッキントッシュよりもユーザーに求める知識深度が深めだなというイメージは以前と変わらない。どんな料理にするかで、調理に取り掛かる前にお勉強のお時間がサンドウィッチされる。

マッキントッシュの「なぜか痒いところにすでに手がある状態」に慣れていると、新たな知識領域が拡大されていく日常に心なしか喜びを感じたりもする。何を隠そう僕は「表向き格好つけているオタク」ということなのだろう。本性というのは関取の張り手でも外に出せないということか。

材料をキッチンに運び込み、調理工程を学び、調理し、提供する。

調理する材料によって、あるいは調理工程によって、キッチンは常にいたちごっこを迫られる。

最新のハイエンドグラフィックボードを搭載し、バカみたいな容量のストレージがあり、オーバークロック対応のCPUとメモリは何をしていても常に涼しい顔をしているが、それでも得意不得意はあるようだし、調理人の僕のせいで余計な負荷を与えてしまうこともあるようだ。整合性や方向性を僕が理解して初めてそのパワーを発揮できる、ちょっとツンデレなこのキッチン。

それでも大きな動画データを慣れてきた僕が早めに作業するとややもっさりとすることがある。このもっさり現象は文字通りこのパソコンの限界領域ということだ。このもっさりを無駄と断ずるとき、新たなパソコンを導入するか否かの選択を迫られる。これはコストと天秤にかけるだけなので簡単ではあるが、一般的な使用方法では「全く」ストレスがないパソコンを買い換えるというのは些か心が痛む。

オーブンのないキッチンでオーブンが必要な調理を工夫して行うには常にあらゆる面での出来上がりに対する妥協を孕むことになるのだ。それは自分にも相手にもよくないことだ。

それがビジネスとして成立している以上、このいたちごっこには心して臨まねばならないだろう。

今年の 目標 を立てようか

目的地がないと到達できない(当たり前)

マラソンだって(僕は長距離走が嫌いなので殆どの走ったことがないが)ゴールまでの距離が公表されていなかったら誰も自分のベストのタイムを出す事はできないだろうし、完走すら運の要素が大きく絡んできてしまうのは言うまでもない。料理だって何を作るか決めないで取り掛かると、美味しいものは出来ないし、片付けの量もとんでもないことになるだろう。それにコストもたくさん掛かるはずだ。

目標や目的がない行動ははっきり言って無駄でしかない。

大目標を達成するためには小目標が多数必要だし、小目標は最初に決めるのではなく、だいたい進み始めてから生まれてくるものでもある。

そして小目標をキッチリと消化して次のステップに進まないと大目標への道は閉ざされてしまうことになる。 いわゆるお勉強が苦手なタイプというのは小目標をおざなりにしがちな傾向があると僕は思っている。

階段は飛ばしていいものとそうでないものがある。基本的には一段一段登るのが正解だし確実だけど、それは学生のうちだけで良い。大人になって初めて許可されるのは実は「捨てる」という行為だと僕は考える。

選択肢の片方を完全に捨て去る決断を任されると言い換えても良い。階段も飛ばす必要にかられるケースに多く直面する。(時間的問題が大半)

人間に用意された時間で事をなすためには正攻法では全然足りないのである。もちろんそこには運の要素も多分に含まれるが、「自分でできる事」の正しい選択によっては充分に与えられた時間内で達成することができる。

そのために必要なのが目標とそのクリアだ。

ちんたらしていられない。時間は人間には到底抗えない圧力で動いている。その時間の中で「効率化」を徹底する事ができるというのはちっぽけな人間に与えられた最強のスキルと言える。

目標、立てましたか?

とっくに通常営業ですね

今年はどんな年になるだろう

20歳で起業してから僕はまともなお休みを1度もとっていなかった。別にそれで不満があるわけでもなく、なんとなくそのように過ごしてきた。しかし去年の頭にフリーランスのトレーダーになってから少しずつ考え方が変わってきている。一般社会と「足並み」を「ある程度」合わせる事でこの世界はとても「過ごしやすく」なるのだと。

がっつりお休みをいただきました。

ウェブでの活動はある程度していましたが、相場は完全にノーポジション、触りたい局面も多々ありましたけどあえてアイフォンを持たずに出かけたこともありました。そうやって「強制と矯正」をしないと頭の中が「仕事モード」に無理やり切り替わってしまう性分との格闘にほとんどの時間を費やしてしまいましたけど、人生初の長期休暇は振り返れば非常に有意義なものとなりました。

「休む」というのはフリーランスであればあるほど「難しい」ことです。僕のように長年自分で仕事をしているともはや「職業病」と言ってもいい。寝ても覚めても隣のクラスの〇〇ちゃんのことが頭から離れない思春期真っ只中の中学生のように「没頭脳」が活動しっぱなしなのですから。 それをWindowsをシャットダウンするときのあのサウンドのように「オフ」にするのはそれはそれは大変なのです。「〇〇というアプリがシャットダウンを妨げています」コーションサインが乱発します。

それでも「強制的にシャットダウン」をクリックしてみました。

結果としては「なんてことなかった」「休みって素晴らしい」となりました。そして「体重貯金」はまんまと吐き出し、今日からまた辛いダイエットの日々が始まります。 

今年は「夏休み」と「冬休み」を取ることを決め、メリハリのある1年にしようと考えています。

ブログも今日から開始しますが、ゆるーくトークバックするくらいで、自分を追い詰める原因にならないバランスで保とうと思っています。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

商売の始め方 必要なのは情熱

学歴も経験も必要ない

以前の記事でも書いたが、僕の一番最初のビジネスは安く仕入れたジュースを自販機の金額よりの安くお友達に譲ることだった。 別になんてことはない。商売の定義として、安く仕入れ、それに「利益」を乗せて「販売」すればそれで良い。昔と今を比べて「商売の始めやすさ」は桁違いにやさしくなっていると言える。経営学なんて学ばなくてもいい。自分の頭と情熱だけで十分スタート可能だ。

現在「やりたいことが見つからない」人へ

僕が個人的によく受けるクエスチョンの中で圧倒的に多いのは、「やりたいことが見つからない」「やりたいことがない」というものだ。彼らには僕が「常にやりたいことをやっている人」という認識なのだろうなと思うし、自分自身そうやって今まで生きてきた。僕は何もないところから何かを生み出すことが得意だし、自信がある。

そういう質問をし、答えを求める人に僕はほぼ100%「商売を始めたらどうか」と答える。 この世の中にはなぜか「就職して働くこと」以外に選択肢を頑なに持たない人が非常に多い。もちろんその気持ちもわかる。そういう風潮の中にあって、「やりたいことがない」ことに「悩める」というのはもはや一種の才能であると僕は考えている。

就職ありきの考え方の人は口を揃えて「安定」「不安」という。 しかしながら僕から言わせてもらえれば安定も不安も「成功の後に心配することなのではないか」と思う。何者にもなっていないうちから「自分の将来を盲目的に限定してしまう」風潮にコーションサインを発信したい。

でも無理にとは言わない。従順で慎重な社員とはいつの時代も必要な人手だし、そういう生き方も当然リスペクトされるべきものだ。

だから上記の「才能」を持っている人にはぜひとも「起業」してもらいたいのだ。

起業と聞くと堅苦しく感じられるだろうし、最初から会社にする必要なんて全くない。 身の回りを見渡して、不要なものを探してみてください。そしてそれを売却してみましょう。大切なのは「少しだけ考えて動く」こと。

その品物はいくらぐらいで取引されているものなのか「リサーチ」してみるのです。そして目標販売金額を設定します。そのあとはメルカリでもヤフオクでもいい。実際に販売してみましょう。 写真を上手に撮影し、タイトルや商品説明も自分が買う立場になってじっくりと練って書く。「出品」ボタンを押すときに緊張するぐらいがちょうど良い。

売れても売れなくてもやることがある。売れない場合は見せ方を工夫してみる。「値下げ」は最終手段。基本的にはNG行為だ。「自分の感性で決定した価格は守り抜くべき」だからだ。SNSで「宣伝」するのもよいだろう。

そして販売が完了したら「丁寧に梱包し、できれば感謝の気持ちをメッセージカードに一言記して発送」相手からの評価をもって初めての取引は完了する。

全てが終了したら「帳面」をつけてみよう。

あなたが初めて叩き出した「売上」をだ。

別に革新的なアイディアなんか持っていなくたっていい。

商売とはどこまでいってもこれ以上でも以下でもないのだ。

その初心と気概と情熱が薄れることがなければ必ず成功が待っています。格好つけてはダメ。「評価は全て後からついてきます」

商売。始めてみませんか?

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ビジネスの拠点 についての考察

絶対的に解消できないのは出社と距離

「お勤めする」ということは基本的には会社に出向いてそこで仕事をする。ということだ。一部例外はあるにしてもほとんどこれに当てはまるだろう。何を当たり前のことを言っているのだ。という声が聞こえてくるような気がするが、果たしてこれからの将来、オフィスというものにどれほどの価値を担保し続けられるのかという疑問をどうしても解消できずにいる。

なぜ、オフィスが必要なのか。

この問いに正確に答えを出せる人はいないだろう。「体裁」という言葉を使用不可にしてしまえばなおさら難易度が上がるし、これはもう暗黙の不可分と言って良い。

「信用」という考えももちろんあるだろう。都内の一等地にオフィスを構えているというだけで、ほとんどの一次審査はパスできるのだから。

しかしそれらの考えはこの先どんどん廃れていくと僕は考えている。するとどんなことが起こるのか。それは地価の暴落(現在の価格から見て。適正価格に落ち着くと言い換えてもいい)だ。現在の東京の地価はべらぼうに高い。「プレミア価値」と言ってもいい。  ではなぜ東京の地価が高いのか。それは東京で働く人が多いからだ。なぜ東京で働く人が多いかといえば、東京に一流企業が多くオフィスを構えているからだ。通勤時間の短縮におそらく一番お金がかかっていると言い換えても良い。その生活圏内で買い物や行楽が滞りなく行われ、利便性もそのまま地価に上乗せされている格好だ。

では「通勤」しなくても良いとなった時に、果たしてそのクソ高いマンションに住み続ける人はどの程度いるのだろうか。小学生レベルの算数ができる人ならばまず間違いなく引っ越すだろう。

皆さんも少しだけ考えてみてほしい。ご自分がオフィスで行なっている仕事は「オフィスにいなければできないのか?」ということを。

もちろん明日からオフィス無しでというのは相当に乱暴だし、取り決めやシステムづくりなどいろいろな事を経て行かなくてはいけないが、もはやオフィスというのは全時代的な代物であるのは明らかなのではないかと考えている。

月間に数千万からの賃料を払うメリットが逆転する日は近い。

いかがだろうか。大いなる無駄からの脱却はいつの時代も恐怖と隣り合わせだ。しかし恐怖に打ち勝った順番で勝者が生成され、次の時代を率いることとなる。生産、物流、ネット、これらインフラの成熟度を鑑みるに、十分現実味を帯びてきたと考えるのは僕だけではないはずだ。

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心のスピードを落としてみよう

深夜食堂というドラマ

別にレビューサイトってわけじゃないから誰が主演でどうでなんて野暮な文章は書かない。ずいぶん前に友人から勧められて見て以来、年に何回かはシリーズを見返している。僕は本でもドラマでも映画でも気にいると「定期的に見返す」性分のようだ。皆さんもお気に入りの作品があるのではないだろうか。

心のスピードにゆっくりとかかるブレーキ

このドラマを見ると僕は必ずと言っていいほど心がゆっくりになる。ゆっくりになった後すぐに人と会ったり、仕事をしたりすると全くと言っていいほど調子が出ない。正確には調子が出るまで時間を要する。

体感、だけでなく実感もある。心がしんと落ち着き、肺の中の息もつかえることなく空っぽになる。ニュートラルそのものなのだ。

その状態はこの上なくリラックスしていてストレスもない状態だと思う。それと同時に普段のスピードがどれだけ自分に「負荷」をかけているかということも考えさせられた。

ゆっくりとお酒でも飲みながらこの余韻に浸るのはこの時期にうってつけなのではと再確認した次第だ。

国民全員忙しい現代日本においてはとにかくスピードありきとなっている。人間は慣れてしまう動物なので、いくら負荷がかかってもそのスピードに慣れてしまう。そしてニュートラルの感覚も忘れてしまう。 どんな方法でもいい、自分なりの方法で「心のスピード」を一旦全部落としてみることをお勧めしたい。

スピードとは面白いもので現実に「上がれば上がるほど視野が狭くなる」という特徴がある。スピードを一旦ゼロにすることで今まで気づかなかったこと、「見えていなかったもの」に気づくことができるだろう。

そしてその見えていなかったものは、あなたが気づいていなかっただけで、昔から「そこにあった」ものである場合が多い。

落としたスピードとともに「暖かさ」を感じることができたらもう大丈夫。

次にまたスピードを落とす時までアクセルは開けっ放しでいいだろう。

今までよりも格段にハンドルのキレは良くなっているはずだ。そこにしかないものを確認するためにはそこに行くだけでいい。

スピード落として見ませんか?

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