察して慮る ということ(もはや高級スキル)

人間関係の潤滑油

この察して慮ることのできない人とのやりとりというのは、気分や時間、そして資産や信用、ありとあらゆるマイナス要因を孕み、非常に厄介な性質になりがちだ。自分のことしか考えられない人というのは年々顕著に増加傾向にあるし、それを咎めることのできない「風潮」に関してはもはや押しとどめることのできない大きな「流れ」になりつつある。今後の日本、日本経済、海外との関係性に大きく危険信号が出ているのはいうまでもない。

旧来の人がどうやってこのスキルを手にしたか。

それは一番最初は家族だろう。父の機嫌ひとつで家庭内の空気はいくらでも変わった。もちろん母のそれもある。兄弟がある人、ない人すべからくまず一番最初は家庭内においての序列の観点でこれを学ぶ。 そして次は友人関係だろう。クラスで気のあう奴とあわない奴。これらの序列的にも変わらない人間との付き合いでこれを学ぶ。家族と他人の境目についてもこの時が一番最初だろう。

そしてそのスキルを完成に押し上げるのが「異性との恋」だ。これはお付き合いできる出来ないは問題ではない。「気になる異性」が出来ることが重要だ。もちろん同性が好きでも構わない。

その過程の中で「あの人はどういう気持ちなのだろうか」ということに「恋心」をまぜて頭を悩ませるということが最重要なのだ。

そして本当にたくさんのことを本気で悩むことによって社会に出るまでの前段階は終了する。

プライベートとパブリックの違いを早い人はアルバイト、遅くとも学校を卒業して会社に入る1年目に知る。

そう言ったカリキュラムを経て身に付くスキルと言える。


ではなぜ「今」それが減少しているのか。

それは何十年も前から既定路線だったのではないかと思う。自分の子供にそういう部分が足りないのだと一番最初に気づくのは「親」だ。その親がそういったことに無頓着になってしまっている原因はそのさらに「親」にある。

自分の子供が可愛いのは生物として当たり前だ。しかし現実がそれを許さなかった時代はあった。そして高度経済成長、バブルの崩壊を経て今、それが薄れ、消えゆくこの時代、「意識」なしにこのスキルを手にいれるすべはなくなってしまったと言える。

子供が可愛くて特別なために、甘やかしてしまう。

しつけはちゃんとしていますという親は多いだろうが、躾とは親のスマホいじりを邪魔するときに鬱陶しそうに叱るということではない。

「他人との付き合い方を家族という目線で教えるということ」が躾そのものなのだ。

 

なんとも厳しい時代になったものだ。

 

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