知らぬが仏 とはよく言ったものだ

ずっと知る努力を怠らなかった

とにかく僕が一番欲しがるものは「情報」だ。情報中毒者と言っても過言ではない。幼い頃両親から、分からない事があれば調べなさい。と言われ、それを純粋無垢だった僕は遵守した。いつしか分からない事が「嫌」になり、そのままにしておく事さえ出来なくなった。それはそれで別に何も問題ないはずだった。勉学や仕事には大いに役立ったし、世界の真理を探求するには知識は必要不可欠だった。

弊害は常にそこにあった。

しかし犬や猫を見ているとふと想う事がある。興味があるのは繁殖と食事だけ。あとは暖かい窓辺でゴロゴロしていれば良い。散歩に出かければ楽しそうなものがいっぱいだ。毎日食事にありつき、当たり前のように危険のない寝床が確保、担保されている。そんな事さえも彼らの頭の中にはないのだという事実。

別に妬んでいるわけではない。僕は生まれ変わっても僕になりたいタイプの人間だ。何度でもこの伏魔殿で情報探求者としての人生を選択するだろう。

よく自分が知っている美味しい食べ物なりをまだ知らない人に紹介したりすると、「こんなの食べちゃったら今までのが食べられないね」と褒め言葉ともはたまた別の意味で捉えられるようなことをかなり頻繁に言われる。

それはそれで喜んで?もらえて嬉しい限りなのだが、果たして僕は瞬間的な幸せをプレゼンスする事が出来たとしても、その人が将来的に「従来」のものを選択する事を奪ったことになるのではないかなんて考えてしまう。

その味を「知らなかった」のなら、従来のもので「幸せ」を得る事が出来ていたのに。ということにはならないだろうか。

知識の探求は一定までいくと「自問自答」の形式をたどる事が多くなってくる。これもまさにそうだ。いちいち表立って発表することではない。

仲の良い人から僕は「いつも何か考えていてかわいそう」とか「一旦頭を空っぽに」と言われる事が多い。

もちろん表に出さない努力をしているのでそんなに目に見えてアレではないはずだけど、滲んでしまうのは仕方のない事だし、僕にそういう事を心配してくれる張本人が僕に助けを求める事案は非常に多い。人間とはつまりそういうものなので僕はなんとも思っていない。

お金だって知識だって「持っている人が出せば良い」のである。いちいち相手に気をつかったり、店員を待たせて割り勘を、なんて僕には耐えられない。

でもたまには僕も犬のように落ち葉に戯れて疲れて寝て、目が覚めるに任せるような時間を本当の意味で享受してみたいとおもうときがあるのだ。

残念ながら、その願いは叶わない。