有利不利 を超越する思いやりという概念

言った言わないの不毛な争い

今日も地球上のありとあらゆるところで言った言わないの不毛な争いは起きているだろう「言った」側の主張は明らかに有利性に便乗してのことだし、「言わない」側の主張は大抵の場合「認めてしまうと不利」ということが確定してしまうからだ。が、果たしてその二人の言い争いは本筋の「言った・言わない」が原因なのだろうかと考えずにいられない。もっと別のところの要因から「この人には上に立って欲しくない」という正義感にも似た感情が見え隠れしているように思う。

例えば仕事

A「この書類を13時までに校正して〇〇さんに渡してほしい」

B「わかりました」

という会話が実際にあったとする。Bは「13時まで」という「部分」をすっぽり忘れていて、15時頃校正の終わった書類を〇〇さんに渡した。そこで〇〇さんに叱責されたとする。「なんで校正にこんなに時間がかかるんだ」と。Bからすれば言われたことを忘れている・聞いていないのだから「何言ってんだこの人」となりすんなり「自分は悪くないモードに突入し「仕事上の信頼を失うかもしれない不安」からもう引き下がる事は出来ないだろう。 「Aさんに時間の指定はされなかったからこの時間だ」とCに伝える。 CはAに確認すると「ちゃんと伝えた」というだろう。

相関関係に表せば誰に責任があるのかは歴然だ。ちゃんと話を聞いていないBが悪い。

ただBがもっとも良くなかったのは「何言ってんだこの人」モードにすぐに突入してしまうところだと断言できる。

Bの立場でCに叱責を受けた時A/B と Cの間でCに責任は無いというところに着目できなければいけない。これは社会人として必須のスキルとなる。

まず第一声に失礼いたしましたを言い、Aのところに自分に聞き漏らしがなかったかを聞きに行くべきだ。Aの性格にもよるが、Bが自分の聞き漏らしに気づけたのならCへの謝罪もすんなりと行き「校正もまともにできない」評価から「うっかりすることもたまにはあるさ」まで格上げされる。うっかりのミスというのは戒めを持てばすぐに解消できるため上席のアンテナには残りにくいものだ(解消される前提ではあるが)

「自分が!」ではなく瞬時に物事を「俯瞰図」で見ることのできない人間とは付き合っていて物凄い疲労感がたまる。

もっとも大抵の人は「なんだか疲れる人だな」程度にしか考えてくれないので目もあてられない。

そしてこれらの人間関係のトラブルに関しては「ちゃんと考えること」と「思いやり」を持って臨んでいればほとんどの場合「なんてことのない」平和な日常そのものまで昇華できる。

今日も空は青いし夜は涼しい。雨が降ったとしても降り続くことはない。「必ず」気持ちの良い秋晴れを冬が来るまでの間に「何度も」感じることができるだろう。

それはとてもとても幸せな事ではなかろうか。

 

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