駆け引き の難しさと勝敗

勝ち負けが存在するあらゆることには「勝因と敗因がある」しかしながらこのふたつは決してオセロのような単純な裏表の関係ではないと僕は考えている。もしも最高の勝者と最高の敗者しかその勝負に関与していないのならオセロでもコインでもいいが、きっちり裏と表となる。でもほとんどの勝負事は「負ける側に明確に負ける理由が存在し、かつそれに気づいていない場合。そして気づいているが制御できない場合」があるように思う。

極論を言ってしまえば「勝手に敗者になる」

勝者はいつも賞賛を浴び、その栄誉を讃えられる。敗者も勝者に対して最大限のリスペクトを表明するべきだし、勝者も敗者をねぎらう方が格好いい。

それはさておき、対戦相手のある勝負事の場合、僕は勝者は「勝手に生成されるもの」と考えている。もちろんそんなに簡単なことではないが、ある一つのルールの中で勝負するときに、その勝負の勘所や所作を完璧にマスターし応用が効く人と、その完成度が80%くらいなのに完成したと思い込んでいる人が戦うと言わずもがな「マスター側」が勝利するだろう。

僕がいつも思う。マスターが勝つべくして勝つのではなく「敗者が当然に負けるから勝者が生まれるのだ」と。 (ナンジャそらと言わないで)

その理論で当てはめて考えれば「勝因」なんていうものは非常におぼろげで不確定なものだ。

しかし「敗因」はどうだ。

毎回非常に明確に足りないものを示してくれるのではないかと思う。

「相手が悪かった」とよく耳にするが、そうではない。「相手より足りない自分が悪い。そして何が足りないのか知ることができるでしょう」ということなのだ。

敗因の的確な分析と考察は、次にそれが原因で「敗者となる」ことを少なく、あるいは無くしていける。

いつかはマスターになる道理だ。階段は飛ばしてはダメだとつくづく思う僕です。

焼肉 が食べたいとき。

焼肉ってなんだよ。フライパンで肉を焼いて食べるのも美味しいけど、それとはまた違った食事だ。「焼肉屋」で食べる焼肉は美味い。家でそれっぽい器具を使ってもなんだか違う。不思議ですよね。「ライブ感」がいいのかな。ジュージュー あとビールも美味い。煙いのは嫌だけど、無煙だと味気ない。匂いがつくのは嫌だけど、匂いがないのはもってのほかだ。焼肉っていう食事はこうも人をわがままにする。

今日は珍しく「書きたいこと」がないのです。最近は朝の5時とかに執筆時間を持ってきているんですけど、それのせいではなさそうです。お腹は確かに空いている。でもわざわざ焼肉を食べに行こうとまではならない。(歩いて5分以内にこの時間でもやっているお店があれば行くかも。。)

頭が空っぽになりたがっている。好きなことを考えさせてあげるタイミングです。だらだらと脈絡のない文章を出力させましょう。

皆さんにもあるはずです。「失敗とまではいかないけど、なんだかうまくいかない日」みたいなやつ。

今日はそんな日と割り切って、美味い酒と食事と休息で英気を養うとしましょう。

終わり

技術向上の効率化と努力

僕はこの手の努力が大好きだ。ドラクエのレベル上げみたいな単調な作業も好きだし、頭を悩ませ、自分なりの答えを模索するのも好きだ。ひとつ思いついてはそれを本気で試して標本を集め、検証し、取捨選択を繰り返す。その正解も不正解もすべからく自分の血となり肉となって、理論に裏打ちされた力となって蓄えられる。

再現性が最も大切。

スポーツでもゲームでもなんでも「成功体験を再現」させることができなければそれは実力でもなんでもなく、ただの「偶然」ということになる。もしも偶然ではないにしろ、「ものになっている」とは到底言えないということだ。

例えばボーリングなどは非常に例として扱いやすい。(僕はボーリングが大の苦手だ。)あのスポーツは本気で取り組んでいる人たちをのぞいてしまえば、完全に「誰でもある程度楽しめるレクリエーション的な位置付け」のスポーツと言える。椅子に腰掛け、ドリンクや食事を楽しみながら、息が切れることもなく、手軽に遊ぶことができる。男女差、年齢差も遊びでやっている人たちにすればハンデにすらならない広い懐があるスポーツだ。

初めてボーリングをした日に「ストライク」が出なかったという人は稀だと僕は思う。(そのストライクにはなんの価値もないが)あのルールは実に絶妙で、1番の成功である「ストライク」が「偶然出る確率が高い」のである。

この辺が今でもボーリング場が各都市に健在な理由だろう。

誰でも思うはずだ。「自分はボーリングがそこそこ上手いぞ」と。

だが、それは違うのだ。ボーリングでご飯を食べている人に「ストライク」を依頼すれば「9割9分」くらいの確率でストライクを披露してくれるだろう。

それこそが「再現性」であり、「理論に裏打ちされた実力」と言える。

別に遊びでやっているのだからそんなこと言われてもと思ったあなた。

これは例えである。(悪しからずご了承いただきたい)

人間とは実に不思議な生き物で、裏打ちされていないものをあたかも当然のように自分の実力と信じて疑わない図太さを持っている。

上記のせいで「負けて当然の戦い」を平然と行い、悔しがったりする。それはこれ以上ないくらい盛大な矛盾だ。

僕は取り組もうと決めたことはなんでもスイッチが入ったように、ガムシャラに検証を繰り返し、最短ルートを模索しながら、向上しようとする。そしてその時間は至福の時間だ。

悩んで苦しむことがそんなに好きなのかと自問自答する日々だけど、その先に何が待っているかを知っていれば、それはこの上ない幸福な時間となることを僕は経験上知っている。

距離が定められているマラソンは競技として「成立」するということか。

地域性というのは確かにある。

僕は結構色々なところに住んだことがある。具体的には控えるが、関東だけでも4回住まいを変えている。 新し物好きで自由人なので、引っ越しは「しなければいけないもの」ではなく僕に取っては「リフレッシュ」「モチベーションの向上」など、ちょっとしたイベントそのものなのだ。インターネット環境さえあれば仕事ができる。今の自分の状況には非常に満足している。

でも「地域性」だけは住んでしばらくしてジワジワ

現在住んでいる場所の地域性は「我先」だ。もう子供も大人も犬も猫も「待っていられない」のである。コンビニの出入り口なんか、文字通り「人間で詰まってしまう」時もあるほどだ。車の運転もそう。「絶対譲らない」のだ。お店から道路に合流しようとしてウインカーを立てていても、譲ってくれるのは「県外ナンバー」だ。レジで並んでいてもグイグイと近寄ってきてこちらを急かしてくる。

財布を覗かれるくらいの距離まで平然とくるのでほとほと嫌気がさしている。そういう人が「たまにいる」なんてもんじゃない。「毎日遭遇するレベル」でいる。

飲食店でも僕が店員さんに注文している景色は見えているはずなのに「すいませーん!」と店員さんを呼んだりする。

これってかなりやばいですよね。

世界には自分しかいないと本当に思っているのではないかと勘ぐってしまうぐらいの日常が今住んでいるところにはある。

一応馴染みのお店のマスターにそっと聞いたことがある。(マスターは婿としてきた県外人) そのマスターいわく「この辺はほとんどが地主とか金持ちばかりで、偉そうな人が多いよ」とのこと。

うーんと思ってしまったが、僕が思う「ムカつく金持ち」というのは「生まれた家が金持ちだった」タイプだ。 まあ地主の小せがれがこのタイプに最も多いだろう。 もちろん全部の地主の小せがれがそうだと言っているわけではない。(いちいちこんなこと言いたくはない) 生まれてた時から好き放題で生きてくればそりゃろくなもんになるはずがない。そういう人たちが「いっぱい」いる地域なのだそうだ。グエー

空気はきれいで気に入ってはいる。が、出かけるならわざわざ遠出しないとストレスばかりたまってしまう。

考えものだ。

ニーズに応えるということ

求めているものを想定し、提供できるか

世界中のビジネスマンがこの究極の問題に日々取り組んでいる。お客様のニーズは実に難解で、不確かで、傲慢だ。それでも自分がこの道を選んだ以上はそれに立ち向かわなくてはならない。僕なりの考えだけど、ニーズというのは「先に応えて差し上げるもの」と認識している。誰でも経験があるのではないだろうか。如何にも良さそうな商品を、開けてからガッカリする現象を。

ニーズには先に応えなくてはいけない。

ガッカリ現象を体験したお客様は2度とその商品を手に取ることはないだろう。しかしながらそれを販売した業者は「それでも良い」と考えている。これは現実にそうだ。そういう業者は絶対に自社製品をプライベートで使ったりはしない。それが「食品」だったとしても「絶対に食べない」裏では「食えたもんじゃない」なんて言っているはずだ。

圧倒的な人口とその中で「一回でも売れれば良い」商売が氾濫している。

僕は決してそのような商売をしたくないと思ってきた。小さい頃少ないお小遣いを貯めて買ったおもちゃが、全然期待はずれどころか、完全なる粗悪品で、おさな心は完全に傷つけられた。やりようのない怒りと悲しみが今でも思い出される。

僕のところから何かを買いたいと思ってくれるお客様はどんなものを欲しいと思っているのか。それを考えるのはいつも楽しい時間だった。そしていつも答えが出ると僕は戦慄した。その難易度が僕の限界を超えていることがしばしば起こったからだ。

それでもなんとしてでも僕はその限界を超えて、「僕が僕である証明」をし続けることでしか、ニーズに応えられないことを知っているし、そうしてきた。

自分で決めて、自分で苦しむ。そして誰にも真似できない何かに到達できたとき、僕もお客様も幸せになれるのだ。

「ニーズに応える」というのは生半可なことではない。

「頑張ればどうになかる」類のものではない。

いつか僕もとうとう自分が設定した目標を達成できない時が来るのかもしれない。でもそれまでは自分を誰よりも信じて戦い抜こうと思う。

そうやって勝ち取った何かは他の誰にも奪われない僕の宝物になるのだから。

いつでも冒険に出かける前の晩は興奮して眠れないものだ。

乳酸菌ってなんなのさ

乳酸菌ボールが欲しい

とある友人から「最近行きつけのラーメン屋でトッピングメニューの中に乳酸菌ボールってのがあって、店主がやたらに推してくる。」と聞いた。僕は乳酸菌のことは「その読み書き」くらいしか知らないので、何もわかっていないに等しい。なんでもそのトッピングを追加すると乳白色のボールがもらえる。それをラーメンに溶かして食べるのだそうだ。

店主曰く「熱に弱いからできればそのまま」

盛大に矛盾しまくっているこの店主だけど、友人が聞いたところによると、その店主自身が「乳酸菌ボール」に救われたそうなのだ。太り気味だった店主は半信半疑で乳酸菌を摂取したところ、みるみる体重が落ちて今や健康そのもののようだ。これはみんなに勧めたいと、自身が経営する味噌ラーメン専門店に投入したそうな。

トッピング価格は驚異の100円。

それで毎日ラーメンを食べても、、健康に、

その友人は必ず「乳酸菌ボール」をトッピングするようになったそうな。しばらく連絡を取っていないので、もし次に会った時、彼がほっそりとしていたら、と思うと楽しみである。

で、乳酸菌ってのはなんなのよ?っていう疑問をすっ飛ばして僕は「乳酸菌ボール」を買えないかと少しだけ努力してみた。某ネットジャングルで検索しただけだが、なぜか、「犬猫用」のものしか出てこないのだ。

「人間様用」はついぞ僕のスキルでは発見できなかった。

業販専門なのか。などと考えたところで思考停止したが、メシアとしての乳酸菌にいまだに僕は恋心を抱いている。

勉強はしていない。理由なんかどうでもいい。乳酸菌を摂取したい。

コンビニに売っているカロリーゼロの機能性表示食品で「カラダカルピス」というのがある。毎日1本いただいている。うまいよ

「よく振れ」とのお達しがあるのでよく振って飲んでいるが、ペットボトルを逆さまにして振ると、底の部分にベージュ色の「乳酸菌さま」がいらっしゃるのだ。

ご尊顔も一瞬でカルピスの海に飲み込まれてしまうくらいしか入っていないが、僕のカラダには「変化!」が起こっている。

とにかくお通じが良くなったのだ。

こうなってしまってはカラダカルピスでは満足できない。

誰か、乳酸菌ボール、ご存知ないですか。。(ラーメン屋は県外)

ゲームにハマるいい大人

以前までの嫌悪感はもうない

僕にとってゲームというのは小さい頃から「友達と遊べない時に一人で遊ぶもの」あるいは「天気が悪く外で遊べない時に友達と室内で遊ぶためのもの」くらいのものだった。ドラクエやファイナルファンタジーが好きだった(FF派)友達とやるときはマリオカートやストリートファイターなど、飽きずにいつまでもやっていた。

競うということに目覚めた

小学校の時など、勉強で優劣をつけて暗黙の上下関係など感じない時代に初めて他人との優劣を感じるのは運動やゲーム、特に身体能力のほぼ関係ないゲームはいい意味で競うことを学ぶ事ができる良いコンテンツだった。(そう思うと僕は小さい頃からフェアな生き物だったみたいだ)

「どうしたらあいつに勝てるか」「上手くなるためには何をすればいいか」をワクワク考えたものである。 「緊張」も味わった。

仕事ばかりでほとんどゲームのことなど忘れていたが、去年の5月にビッグタイトルがリリースされ、僕はまたゲームにハマることになった。

PUBG (プレイヤーアンノウンバトルグラウンド)

北野武主演の映画「バトルロワイヤル」に触発され製作されたゲームで100人のプレーヤーは飛行機で「島」に連れていかれる。任意の場所にパラシュートで降下し、銃器や防具などを集め、最後の一人になるまで戦う。(生き残る)事が目的だ。

島は広大で8キロ×8キロだ。そこには海や、川、橋、街、集落、山、シェルターなど多種多様な建造物や自然がある。徒歩や車、ボートなどを駆り、生存を目指す。

戦術も自由だ。(現実の人間ができない行動以外全て可能)

とにかく銃声の鳴る方に赴き、積極的に生存を勝ち取るもよし、

ただひたすらに身を躱し、その時をまつもよし。

1試合30分。

時間経過とともに競技スペースはどんどん縮小されていく。競技スペースの外にいることも可能だが、ダメージを受ける仕様だ。最後には競技スペースはなくなる。

−小さな頃、友達と2人プレーで遊ぶゲームが楽しかった。

小さいテレビ画面を分け合って遊んでいた。

それが今はどうだ。

100人の友達と、たった一つの「場所」でゲームができるのだ。しかもこれ以上なくフェアに。(お金をかけたからといって強さには関係ないところも素晴らしい)

携帯端末の目まぐるしい進化はとうにコンシューマー機を追い越し、こんな複雑な重量級ゲームを60FPS(1秒間に60コマ)で動かし、100人もの人間を同時に同期させることに成功している。

これはとんでもない市場だ。

競技性も極まった。

いい大人でも十分に楽しめるはずだ。

知らぬが仏とはよく言ったものだ

ずっと知る努力を怠らなかった

とにかく僕が一番欲しがるものは「情報」だ。情報中毒者と言っても過言ではない。幼い頃両親から、分からない事があれば調べなさい。と言われ、それを純粋無垢だった僕は遵守した。いつしか分からない事が「嫌」になり、そのままにしておく事さえ出来なくなった。それはそれで別に何も問題ないはずだった。勉学や仕事には大いに役立ったし、世界の真理を探求するには知識は必要不可欠だった。

弊害は常にそこにあった。

しかし犬や猫を見ているとふと想う事がある。興味があるのは繁殖と食事だけ。あとは暖かい窓辺でゴロゴロしていれば良い。散歩に出かければ楽しそうなものがいっぱいだ。毎日食事にありつき、当たり前のように危険のない寝床が確保、担保されている。そんな事さえも彼らの頭の中にはないのだという事実。

別に妬んでいるわけではない。僕は生まれ変わっても僕になりたいタイプの人間だ。何度でもこの伏魔殿で情報探求者としての人生を選択するだろう。

よく自分が知っている美味しい食べ物なりをまだ知らない人に紹介したりすると、「こんなの食べちゃったら今までのが食べられないね」と褒め言葉ともはたまた別の意味で捉えられるようなことをかなり頻繁に言われる。

それはそれで喜んで?もらえて嬉しい限りなのだが、果たして僕は瞬間的な幸せをプレゼンスする事が出来たとしても、その人が将来的に「従来」のものを選択する事を奪ったことになるのではないかなんて考えてしまう。

その味を「知らなかった」のなら、従来のもので「幸せ」を得る事が出来ていたのに。ということにはならないだろうか。

知識の探求は一定までいくと「自問自答」の形式をたどる事が多くなってくる。これもまさにそうだ。いちいち表立って発表することではない。

仲の良い人から僕は「いつも何か考えていてかわいそう」とか「一旦頭を空っぽに」と言われる事が多い。

もちろん表に出さない努力をしているのでそんなに目に見えてアレではないはずだけど、滲んでしまうのは仕方のない事だし、僕にそういう事を心配してくれる張本人が僕に助けを求める事案は非常に多い。人間とはつまりそういうものなので僕はなんとも思っていない。

お金だって知識だって「持っている人が出せば良い」のである。いちいち相手に気をつかったり、店員を待たせて割り勘を、なんて僕には耐えられない。

でもたまには僕も犬のように落ち葉に戯れて疲れて寝て、目が覚めるに任せるような時間を本当の意味で享受してみたいとおもうときがあるのだ。

残念ながら、その願いは叶わない。


最大の敵は自分自身なのだと

選択の連続で形作られる

右に曲がるのか左に曲がるのか、あるいは直進、後退することも立ち止まることも基本的には自由だ。現代において最低限のルールの中にいる以上「自由」が常に保証されている。もちろん誰かが幸せにしてくれるわけでも、ご飯を食べさせてくれるわけでもない。それでも「決断」を下すのはどこまでいっても「自分」ということだ。そしてその決断によってもたらされた結果を嫌でも受け入れる必要がある。

決断力っていうとなんかピンとこない。

決断するだけならばハッキリいって誰でも簡単にできる。「決断」が本当の意味で難しい理由は決断後の展開に自信があるか不安が多いかのことに頭を悩ませることが原因だ。「この決断の先にはどんなことがあるだろう」と考えれば誰だって二の足を踏まざるを得ないのである。責任は取らねばならない。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」

有名な言葉だが、僕はこの言葉が好きだ。敵の力量なんて正確にわかるはずがないが、得ることのできる情報を可能な限り多角的に分析し、己の状況や能力と照らし合わせる。その結果勝てると踏んだ時のみ行動を起こすようにすれば100回戦っても危なげないということだ。

そしてこの言葉の素晴らしいところは「戦わないという選択」も含まれているというところ。

やられるかも知れない状況で戦いに行ってしまっては、いつかは敗北してしまうのだ。これは摂理。どうすることもできない現象だ。 だから攻める決断が下せないときは「引く決断」を自信を持って下す。そしてその結果チャンスを伺うことができ、次の勝利までの時間を稼ぐことができる。

よく必勝法などと銘打って発表しているものを目にするが、それは当然ながら不可能だ。「必勝法が確立している競争には競争がすでに成立していない」というジレンマに気づくべきだ。

もしもそういった発表の中に「負けない方法」というセンテンスを発見できれば僕は若干の興味をひかれる。

「必ず勝つことはできないが、極限まで負けにくくすること」は可能ということだ。それはあらゆる競争、ビジネスにおいて極意となる考え方だ。

「押してダメなら引いてみろ」も良い言葉だが、僕がより好きなのは「押す前に考えろ」である。

押してダメだったと気付くのでは若干遅い。

その若干という刹那の中でも十分に勝敗が決するだけの悠久が存在してしまうからだ。

不確定要素の可能な限りの排除に取り組み、排除しきれない要素全てが自分の行動に反作用してしまった場合でも勝てると判断できる時だけ動けば良い。

戦わないことを選択できるって格好良くないですか?

お年寄りになると子供に戻るというが、

これまた深刻な事なのかもしれない。

現代の子供たちが、甘やかされて育った親に育てられた結果、大人をものともしない子供たちが量産されてしまったことは頷ける。そして「その親を育てた親」が現在「お年寄り」として君臨している。決して括って語っているとか、決めつけているわけではない。←いちいちこんな脚注をつけなくてはこわくてものも書けない時代になっているということにほとほと嫌気がさしているということなのかもしれない。

犬ころの散歩中に買い物をしたんですよ

別にそれはなんてことない日常。でも今日はひどかった。まずはコンビニに行こうと歩いていると、道に婆さんが落ちていた。ある程度近づいて「おかあさん大丈夫ですか?」と声をかけた。「ちょっとつまづいちゃって、でも大丈夫」と返事が。パッと見た感じ怪我もないようなので安心してコンビニへ。するとその婆さんもコンビニへ。さっきまでピンピン歩いていたのに、入店するなり腰が曲がり棚という棚全てを「手すり」がわりに歩く。商品はガタガタに。店員が「大丈夫ですか?」と聞くと「大丈夫」と。

(その婆さんはホットコーヒーを買ってその場でこぼしていた)

頭の中がクネクネしたけど、レジに並んだ。する僕の前で会計していた違う婆さんが某リポビタンを店員に開けさせていた。そしてその場で飲み始める。グビグビ。店員が僕をレジに促すがグビグビはどかないので、僕は揚げ物の前で店員にタバコを注文(アイコス) 僕の会計をしている最中にその婆さんは盛大なゲップとともに空き瓶をレジに置き、「タクシー呼んでくださる?」と。。

店員も「お待ちください」とピシャリと言うものの、暖簾に腕押し。

僕が揚げ物の前から手を伸ばしてお釣りと商品を受け取る最中も婆さんはどかなかった。

やれやれと思って揚げ物の前から出口に向かおうとすると、店のすみのATMの方から爺さんの怒鳴り声「おい!違うカードが入って出てこねーぞ!」と。

確かに一字一句違わずこう言った。

店員に同情しながら退店したが、帰り道は爺さんの言葉の意味を考えた。

・何を入れたのか。

・スリットに入るカードならば取り消しボタンでカードが排出されるのは当たり前だが、そもそもそのことを知らないのならATMを使用すること自体できないのではないのか。

・「違うカード」を入れたのは自分なのになぜ上からなのか

・電話機だと思ってテレカを入れたのか。(入るのか)(確かに受話器もテンキーもあるが)

犬ころは相変わらず落ち葉に夢中だ。

これは実話である。

もちろん、痴呆や徘徊など、介護を必要とするお年寄りを抱える家族の心労は想像を絶するものがあるとは思うが、そもそもの人間性がこうも簡単に失われるとは到底思えない。(今日出会ったカオスな人々は痴呆でも徘徊でもない)

何不自由ない生活が生み出す弊害について真剣に考えておく必要はどんどん強くなっていくだろう。